「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(48)シュバイツァー「原生林の片隅にて」を読む


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KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(48


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第5回 「シュバイツァーの「原生林の片隅にて」を読む」(19)
吉田源治郎訳 シュバイツァー著『宗教科学より見たる基督教』
(原題『世界の諸宗教と基督教』)付録。大正14年9月8日、
警醒社書店より刊行


 シュワイチェルの「原生林の片隅にて」を読む


                               吉田源治郎


          十三 苦痛の印記を帯ぶる人々の連帯


 『苦痛の印記を帯ぶる人々のフェローシップ!、誰が此の内輪へ仲問入をするか。経験に依って肉体慾の苦痛、病苦の意味を學んだ人たち――これ等の人々は、皆一つの見えない紆で連帯されてゐる。一度、病苦を嘗めて恢復の喜びを得た人は、その儘自由を私してはならぬ。一度、此人生の患苦に目の開いた人は、進んで、同じ苦痛に懊悩する他の人の救済のために立ち上らなくではならぬ。手術を受けて死苦から甦つた人は、死と痛が残虐な暴威を奮ふ所に向かって、外科医療のメスを差し向けるために、手を籍すべきである。


 それが「苦痛の印記」を帯ぶる人々のフェローシツプの連帯の意味だ。自分の感謝は、悩める者への同情の源泉とならなくてはならぬ。かかる苦痛の印記を帯ブル人々の一団に依って、原生林奥深く働くドクトルたちは、文明と人間と人道の名に於いて、始めて、その仕事を支障なぐ進める事が出来る。


 間もなく、私の此処に述べた考えが、世界を征服する時が来るであらう。此れは、我々の智と同時に、情に訴ふる間然なき論理だからである。
 

 然し、果して、今日が、――大戦役の疲弊に苦しむ今日が、此論理を重荷の下に呻吟してゐる欧州に持ち出す適当な時期であろうか?
 

 然し、真理はそのために特別な時間をもたぬ。真理にとってはいつも、時は今――常に今である。郷土に於ける災害への心配り、至る所の惨状に對しての懸念は、共に働いて、多くの人を彼等の之までの無思慮から目醒ます肋けとならう。そして、新しい人道の精神をその間に喚起するであろう。
 

 或人は疑って、苦痛の印記を帯ぶる人々の一団が、仮に数人のドクトルをかしこに送り、ここに派遣したってどれ程の効果があらうと云ふかも知れぬ。どうして限りない世界の惨苦に対抗出来やうと。然し、アフリカ内地では、普通の設備さへ特てば、一人のドクトルでも想像出来ぬ程の多くの救済が出来る。


 マラリヤの治療には,キナエンと砒素薬、腫物性の各種の病気には、ノヴワルセノベンゾオル、痢病には吐剤、そして各種の手術が出来るだけの熟練と設備、之れだけ揃ふならば、一年足らずの中に、さもなくば、絶望に悲しむ外ない幾百の人間の生命を、苦患と死との呪いから解き放つことが出来やう。


      (つづく)