「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(43)シュバイツァー「原生林の片隅にて」を読む


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KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(43)


http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第5回 「シュバイツァーの「原生林の片隅にて」を読む」(14)
吉田源治郎訳 シュバイツァー著『宗教科学より見たる基督教』
(原題『世界の諸宗教と基督教』)付録。大正14年9月8日、
警醒社書店より刊行


 シュワイチェルの「原生林の片隅にて」を読む


                               吉田源治郎


          八 自然人とイエスの勝利


      (前回のつづき)

 
 ー例を挙げるとこんなことがある。病院で、母親が出産すると親も子も白い塗料でもって、顔手足の嫌ひなぐ全身を粉り立てる。そして、おつかない形相をつくる。此風習は、原始民族に通有する仕草である。此の行為の目的は、こう云ふ機会には、特に危害を加へると信ぜられてゐる悪の霊を嚇かし、或は、ごまかす為である。私は此の慣習については、格別痛心しない。時には、私から進んで、赤ん坊が生まれるとすぎ、「おい気をおつけ!、塗ることを忘れちやいけないよ」と云ってやることさえある。生面目に正面から勢こんで攻撃するより、一寸した友情的な風刺の方が、精霊や、フエチツシユにとって苦手なことがあるのである。我々−−欧洲人――自身考へてもみないけれど、その起源を異教的観念に根ざす数多い奇妙な風習行事を守ってゐることに心を留めたいと思ふ。」


 勿論、土人の倫理的更改は、完全なものでありえない場合が多い。然し、我々が、もし、さう云ふ場合に、心情から湧き上る真の道徳と、表面的な社会道徳との区別を明らかにすることが出来るならば、正常な批判が下せやう。土人の信者は、前者の意味の道徳には、実に忠実だ。我々は彼等がキリスト信者なるが為に、普通ならば返す復讐もやらす、義務と考へられる肉親の為の仇討さえも、敢えてやらないことを考えてやらなくちやならぬ。『一般に考へて、原生林の自然人は、我々欧州人に比べて、はるかに善良な性質を帯びてゐる。この善良な性質に加ふるに、キリスト教を以てする時、驚ぐばかりの貴き品性を生ずることは期して待つべきである。』


 グリスマスの思ひ出が面白い。一九一四年のグリスマス〜の日記の一節に『處女林に於ける戦争中のクリスマス――クリスマスツリー代用の棕櫚の木に点じた蝋燭が長さの半ば燃えつきた時に、私はフット吹き消した。


 「どうしたのです」と妻が聞く。
 「だって、クリスマスの蝋燭はこの外に持ち合せがない。だから来年のために残すつもりだ」と私は答える。「来年のために?」と妻は頭を振る。」と記してゐる。


 『一九一五年のクリスマス。森林で迎える二回目のクリスマス、しかも再び戦時のクリスマスだ。去年の残りの蝋燭も、今年の、クリスマスツリー(棕櫚)の上でとうとう燃え尽きた。』


    (つづく)