「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(42)シュバイツァー「原生林の片隅にて」を読む


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KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(42)


http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第5回 「シュバイツァーの「原生林の片隅にて」を読む」(13)
吉田源治郎訳 シュバイツァー著『宗教科学より見たる基督教』
(原題『世界の諸宗教と基督教』)付録。大正14年9月8日、
警醒社書店より刊行


 シュワイチェルの「原生林の片隅にて」を読む


                               吉田源治郎


          八 自然人とイエスの勝利


      (前回のつづき)

 
 土人はイエスの救いの経験に依って二つの解放を味わう――一つは、之れまでの恐怖に充ちた世界観が一変されること、二つには、無倫理的見解が、倫理的に転更することだ。


 『私は、ラムバレンの広い学校の教室の一つ―−そこは、教会にも用いられてゐる――で、山上の垂訓や、イエスの譬、或は、バウロの新生に関する言葉を講解する時ほど、イエスの教え−其の尤も単純なものの勝利の力を感ずることは外にない。』


 どの程度迄、ニグロが、キリスト信者として、別人となれるか? 受洗の際、彼は、これまで持った一切の迷信を放棄するが、迷信は、彼の生活、及び、その社会の組織に根強く織り込まれてゐるので、二十四時間を以で、それから脱化することは不可能である。だから、彼は、幾度となぐ巨細の事柄に於て躓く。我々は余りに、枝葉に亘った土人の風習や、行事を重くとりすぎて、彼等が、それから容易に絶縁せぬのをもどかしがる。然し、大切なことは、信仰に入った土人をして、何ものも――如何なる悪の精霊も――存在せぬことを丁解させることである。


     (つづく)