「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(33)シュバイツァー「原生林の片隅にて」を読む



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(33)


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第5回 「シュバイツァーの「原生林の片隅にて」を読む」(5)
吉田源治郎訳 シュバイツァー著『宗教科学より見たる基督教』
(原題『世界の諸宗教と基督教』)付録。大正14年9月8日、
警醒社書店より刊行


 シュワイチェルの「原生林の片隅にて」を読む

                           吉田源治郎


       二 原生林中での思索

    
      (前回につづく)


 夕方の静かな時間はこんな風にして送られる。書休み――午後の洽療にかヽる迄の一二時間は、そして、日曜の午後は、バッハの演奏に時間を費やす。そのオルガンは彼がオルガニストをしてゐた、パリ・バッハ協会から、特に熟帯地向きに對熟設備を施して、寄贈して来たものだ。彼は云ふ――


 『私は発狂的な人間の集団から離れて、バッハの曲を演奏しつつ、しみじみと祝福を感ずる。私は、今迄にない彼の音楽の深味と意味を見出すことが出来るやうになった。』


 原始民族に傅道をする宣教師は、あまり教養が要らぬやうに普通考へられるのであるが、斯の問題に関して、シユワイチエルは全然、反對の意見を洩らしてゐる。即ち、


 『宣教師に、充分な敢育が必要であるか――勿論である 其人の心的生活、並び知的興味が発達して居れば居るだけ、尚一層よくその人は、アフリカ生活に持堪えることが出来る。此保護なくして人は、間も無く、此處でさう呼ばれる所のニッガーになる。即ち其意味は彼が凡ての高尚な見地を失ふことを示す。そして、彼の知的作業が停帯すると共に、ニグロと同じに、つまらぬ事物を大事がったり、つまらねことに長談議をやるやうになる。神學のことに於ても同じこと、教養の深い程、いい。


 尤も、或る場合には、深い神學の教養が無ぐても善い宣激帥になれないこともない――その一適例は、我々の傅道地の總主事フヱリツクス・フアル君だ。元来この人は、農業技師が専問で、農業方面の一切の仕事を坦当する為に最初オグオヱに来たのであった。所が同時に、その説教者として、また傅道者として、優秀な人物であることが分って来たので、今では、裁植の指導よりも却って傅逍の方面に余計時間を費すやうになった。』


 然し原生林の片隅に住んで原始的な生活をやってゐる気心の知れない人々に接し、叉恐ろしい睡眠病を傅播する蚊や蝿との對抗に日夜を送ってゐると、除程、注意してゐても、道徳的健康を損ない易い。


 それで、こんな處で生活をする人にとって一番大切な事は、断えず、高級な読み物を手にして思索をする習慣をつけることである。さもないとぢきに心の病人になって、正常な人間性を失ふ恐れがある。


 それで、こちらに住む心ある人は、必ず読書と思索を忘れない。


 『此間も、カヌーで長旅に出る村木屋の訪問を受けたが、別れる時に、私が、「何か本を御貸ししませうか」と聞いたら、その材木屋の主人公は、私の申し出を感謝しながら、「私も実は舟旅の用意に本をもって来ました」と云って、カヌーの舵に一冊の本を持出して、私に見せるのであった。それは、十七世紀初葉に著はされた偉大なるドイツの神秘圭義者であり、靴屋を業としたヤコブ・ベエメの名著、「アウロラ」であった。』


 茲で、私は少しぐ、シュワイチェルの奉仕をしてゐる中央アフリカ、オグオヱ地方について語らなくではならぬ。


     (つづく)