「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(29)シュバイツァー「原生林の片隅にて」を読む



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(29)


http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第5回 「シュバイツァーの「原生林の片隅にて」を読む」(1)
吉田源治郎訳 シュバイツァー著『宗教科学より見たる基督教』
(原題『世界の諸宗教と基督教』)付録。大正14年9月8日、
警醒社書店より刊行


 シュワイチェルの「原生林の片隅にて」を読む


                         吉田源治郎


       − 見棄てられたる門前のラザロ


 『私は、ストラスブルヒ大學教授の位置と、文學的作業と、(パリ・バッハ協会の)オルガ二ストの仕事を一切放棄した。そして中央アフリカヘー医師として行くことにした。どうしてかゝる決心をしたか?』とアルベルト・シュワイチェルは、その新著、『原生林の片隅にて』(一九二二年発行)の第一頁を書き出してゐる。


私は、最近手にした本のうち、こんな印象の深い読み物を知らぬ。それは。イエスに在る者の血の出るやうな愛の奉仕の記録である。


 彼はその動機を述べる序に、イエスの讐喩にある『富豪と門前のラザロ』の話を引いて欧洲人の利己的な文明誇負を警しめてゐる。ヨーロッパ人は、門前の貧民に一顧をも輿へない無慈悲な金持だ。我々は、医學の進歩に依って、ほぼ、一切の病苦に對抗する術を獲得した。そして、その無限の恩寵を当たり前のことのやうにして貪ってゐる。然し、一度目をこの「文明」の門前に転ずるとそこには我々の持つ凡ての病苦――それ以上の病苦にさいなまれて、然も、それに對抗する何一つ手段をもたない無惨な姿をしたラザロ――黒人の群――が、呻ひてゐるのではないか。そして、恰も、譬話の金持が、門前の苦悩者の地位に、身を置き換えて考へても見ず、叉自分の心情と良心の聲に聞いて、此ために何かせねばならぬ所を回避したために罪を犯したやうに、今日の欧洲人も『門前の貧しき人』に對して同に罪を犯してゐるのではないか? と。


   (つづく)