「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(19)


昨日、神戸イエス団において吉田源治郎先生のご子息・吉田摂氏とお会いして、新しい資料と多くの写真を見せていただきました。そして現在では古書店でも入手困難な吉田源治郎訳シュバイツァー『宗教科学より見たる基督教』(大正14年、警醒社書店)の特別復刻版を頂きました。本書のなかには訳者の吉田源治郎による「シュワイチェルの『原生林の片隅にて』を読む」が収められています。ブログ連載の折りにも取り上げていますが、ここでもいずれこれはテキスト化して紹介できればと考えています。

上に収めた写真は今回初めて拝見できたもので、賀川豊彦と吉田源治郎が並んで撮られた大変めずかしいものです。タッピングの撮影のもののようですが、年代と場所は不詳です。




KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(19)


http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第3回 保育に於ける自然研究(7)


『子供の教養』(昭和14年11月号)


         保育に於ける自然研究


                  吉 田 源 治 郎


(前回に続く)


         フレーベル「人の教育」よりの摘録


    (この項の続き)


 さう云へぱ、村や川舎に住む學校教師は、答へて云ふかも知れぬ。「學校の生徒達は、一日中、野外に出で、野や林の中をかけ廻つてゐる」と。如何にも生徒たちは、野外をかけ廻って居るであらう、然ししながら、実に、彼らは、野や林の中に、活きて居るのではない。言ひかへれぱ、真に自然のうちに、自然と共に生きてゐるのではない、……それは丁度、美しい地方に生れて、其所に生ひ育った人がその地方の美をも、その精紳をも感ずることがないのと同様である。然しながら――ここが要点である――子供といふものは、本来、自分の内的の心眼をもって周囲の自然の内部、その生命を感じ、これを発見し、看破するものである。……少年は、白分か深く、心に感じてゐることを大人が実証して呉れるやうにと要求してゐる。……もしその要求するものが得られない時には、……年長者に對する尊敬を失ひ、心の本質から起った知覚や、感じが全く後退して了ふことである。それであるから、子供も大人も共に野や、林の中を散歩して、互に協力して自然の生命と、精神とをわが心にとり入れるやうに努力することが最も大切である。然うすれば、多くの子供のするやうな、怠慢な、無益な、不活発な散歩などは、直ぐになくなるであらう。


 自然は……全体として、全体を通して神の精神を表白し、言ひ傅え、またこれを人の心に呼び覚ますところの、神の言葉の全体として働くものである。内部的観察をする時には自然は、かやうなものとして現はれて来るのである。……普通の皮相的観察の場合には、自然は、互に別々に、異なりたる、その間に何ら一定の、生また内的結合関係もないところの、個別のものの複合、誰多として現はれてゐる。……かやうな個々別々なる物は、外的には、別々に離れてゐるが、実に、一つの大なる生きた自然的有機体、内的精神的に力強く結合される、一つの大なる自然全体の、有機的結合の各肢体であること、自然は、かくの如き一つの有機体である、といふことなどは皮相的の観察者の目には隠されてゐるのである。


    (つづく)