「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(11)



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(11

http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第2回 「間所兼次と消費生活協同組合運動」(4)
賀川豊彦と協同組合運動―資料1
(『賀川研究』第2冊目所収昭和23年)


    間所兼次と消費生活協同組合運動


                     吉 田 源 治 郎

 
   (前回に続く)


 昭和十八年我國の経済機構の変転期に際しては、文字通り寝食を忘れ早朝より深夜に至る迄活動をつゞけた結果、遂に同年八月頃より身体に異常の疲労を覚ゆるに至り、その秋よりは現職を離れて共益社の厚意により療養生活に専心没頭した。


 かくして昭和十八年十一月浜松市外三方ヶ原村財團法人聖隷保養農園に入院したが、都合により暫く兵庫県三輪町日本医療團春霞園にて静養した。翌年十一月再び聖隷保養農園に移った。


 昭和二十年二月十日から七月二十日に亘っての消息を兼次は前掲「療魂」と題した二冊のノートに丹念に配してゐるが、それによると二年に亘る病臥中に共益社の人々を知己友人の変わらざる親切友情に守られたことに對し限りなき感謝を捧げてゐる。


 故人の病室の生活はこんな病人は珍らしいと云はれる程平静なものであった。然し何とかして再起して共益社のため、消費組合のために働きたいとの念願は病床中にものせられた左記の短歌にもよく表現されてゐる。


  如何なれば一年半をいねしわれ、いつ許されて立たむとするか


  此の祈り聞けばや聞けね、ただわれは起ち上がるなれこぞを限りて

                       (昭和二十年三月二日)


 組合長田中俊介氏より共益社の人々の吉野山のつどひについて、
 「みよし野の山ふところにつどひして、なほ足らぬ思ふ君あらなくに」との歌だよりを受けては、
 「みよしの山ふところにはらからのちかひは堅し明日の勝どき」(昭和二十年五月)と返歌してゐる。
 かかるうちにも病室の壁間には自らの選定した聖句の日めくりを掲げ、之れを日々愛誦しつつひたすらに療病と信仰生活とに精進した。


 だが、昭和二十年九月頃よりは病勢とみに悪化し、遂に同年十一月二十八日午後二時過ぎ、神の恩寵と多くの友人たちの友愛に感謝しつつ、全能者のみ手に一切を委ねて召されたのであった。


     (つづく)


この度吉田摂氏より新たな写真を拝見したなかから、吉田源治郎関連の資料記録として、とりあえずここに収めているが、今回は吉田源治郎が生涯深く関わった「イエスの友」関係の写真を挙げて置く。


先ず、これは西宮の一麦教会を会場にした新年の聖修会。



次は、1974年1月3日の一麦教会におけるイエスの友新春聖修会。