「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(8)



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(8

http://k100.yorozubp.com長期連載(150回)補充資料


第2回 「間所兼次と消費生活協同組合運動」(1)
       ―賀川豊彦と協同組合運動―資料1
           (『賀川研究』第2冊目所収昭和23年)


   間所兼次と消費生活協同組合運動


                      吉 田 源 治 郎


 間所兼次は明治三十四年六月十一日に三重県宇治山田市大世古町一一八番地に父松蔵母しめの次男として出生、大正六年三月宇治山田市立商業學校を卒業した。


 八年の六月大阪市に出て賀川氏の紹介で八濱三郎氏の下に大阪市救済事業事務員となったが、同じ年賀川豊彦氏の提唱により購買組合共益社の組織せらるると共に、その招きを受け一従業員として参加、昭和二年共益社常務理事として選任せられ爾来兩三年の期間を除きその主事として多事多難な経営の衝にあたった。


 大正十四年共益社内に消費組合協會の創設せらるるやその責任者となり、昭和二年同會機関紙「消費組合時代」を創刊、その後三年間に一萬部以上を全国に配布し地方に於ける消費組合運動興隆の機運をつくった。その影響下に約二百の消費組合が全國各地に組織せられた。


 消費組合協會は國民服、別名賀川服、ヨルダン石鹸、ツラヌキ石鹸、神の国石鹸等を取扱ったが、その名称はすべて故人の命名に係はるものである。


   (つづく)


付録  2012年11月5日に、吉田源治郎先生のご子息・吉田摂氏より新たな写真を拝見する機会があった。その中に間所兼次の活躍した大阪の共益社関係の貴重な写真が含まれていたので、ここに収めて置く。


まず「昭和3年6月 コールテン服:賀川服の時代に入る」という説明書きのあるもの。前列中央が間所、その後ろに賀川。




次は、「昭和6年6月4日 江戸堀 共益社」とある写真。何の祝い事なのか? 間所は真ん中前列。賀川の「串」記しをロゴマークにした共益社の小旗を掲げて。




次は、「関西大風水害の後、北港児童会館入口、左が吉田源治郎、4人目が間所」とある。