「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(5)



KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」(5)

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第1回 「又逢ふ日迄」(故吉田なつゑの思い出)1917年8月(5)


           又 逢 ふ 日 迄
          
        ――故吉田なつゑの思ひ出――

 

     (前回の続き)

       

              死 の 蔭 に   


 6月7日午後3時過ぎ故郷の母は、一通の電報に驚かされた。電文には「ホンニンマツスグコイ」であった。何の準備する間もなく、あたふたと駅に駈けつけた。最早駄目、到底生きた顔は見られないがらと覚悟して、生れて始めての長旅を母はした。
                           

 8日の朝、逢って見ればなつゑは割合に元気であった。それから2週間兄が阪紳地方の旅より帰る頃、23日に彼女は順天堂分院の一室に病を養ふ身となった。


  病の床にも慰あり、我等に代わりて血を流せゐ主のみくるしみを
  思ひ見れば、痛みはおのれと忘られけり。


 わざはひの時も喜あり、父はいつくしむ子をむち打ち、火をもて鍛ふる事を知れば、身を焼くぱかりの苦をも偲ばん。


 兄より葉書に書き送られた讃美歌325番は彼女の病床の慰となった。しばしば取出しては低唱した。彼女自身が多分病臥した最初の頃書いたと思ばれる力のない文字の震へた176番の歌が、永眠して後発見された。


 6月の中頃殆ど死と対面し、7月の始には「もう駄目との医師は宣告をした。


 病床に於ける彼女の顔容は平常よりも美しく輝き、断えず笑を俘べてゐたが、然し乍ら死の蔭は早くより彼女を蔽うてゐたものと見える。然し誰が何と告げても彼女の母と兄は彼女の死を信じなかった。此平静な何の不安もなく快よい笑を堪えてゐるなつゑが遂に眠るとはどうしても信ぜられなかった。


 某姉の病室の壁に張って下さった画の傍には「慴るる勿れ、ただ信ぜよ、女は癒ゆべし」と書かれてあった。彼女は見舞はれし信仰の友入は皆、必ず癒ゆべしとの確信を以て熱心に祈ってくれました。彼女の母と兄とは勿諭であった。


 ああ、されど神は余等の切々の祈願に反して、彼女を奪ひ給ふた。聴かれざる祈祷の辛さ、余等の切々の祈祷、友人の熱願は空に消え去ったのであるか。聖書には、「若し汝等何事にても我名に託りて願はば我之を行さん」とあるに。


 5週間余りの病院生活、異郷の空に呻吟はしてゐるものゝ、彼女は多くの人々の友惰に抱かれつつ静かな日々を送った。ある方は草花を、ある方は慰籍の言葉を携へて訪ねて下さった。恩師学友の心からの御慰問、今更い如く感謝に堪えません。


 体温の高低は不定であった、一口に十斤以上の氷を水にした日もあった。頭に戴せた氷嚢が何かの拍子で辻り落ちた時、「氷辷りですよ、一二三」などと云って傍の人を笑はせた。「母様、私を叱って看護婦を痛はってやって下さいね」、と彼女はよく母に云ふた。


 7月の末一時不良の状態から大層持直して体温も平熱に近づき、医者も再び回復の希望を以て手当を始めた頃、「手ももう自分で動かせる、足もこんなに動くでせう、もうぢきに外を歩けるやうになる」、などと心から嬉しさうに訪客に動かして見せた。


 7月の20日からしばしば、痰が咽喉につまって苦しいと云って訴へた。「熱の高い時の方が余程気持がいゝわ、お母さんとも話が出来て――」


 衰弱した身体にせきをせき込む様は隨分苦しさうに見えた。然し全体の様子が何となく機嫌よく大丈夫、生命拾ひはするだらうと、やや余等は安心した。


 7月30日(明夕逝かうと誰が知らう)の午後は大層心持がよく、快活に何かと話をするのであった。顔色には艶があった。3時過彼女は兄と聲を合せて、


    我たましひのしたひまつるエス君の美しさよ
    峰の楼か谷の百合か何になぞらへて歌はん
    なやめる時の我慰め淋しき日の我友
    君は谷の百合峰の桜うつし世にたぐひもなし
    身のわづらひも世の憂も我と共分ちつつ
    誘ふ者の深き企み破り給ふ嬉しさよ
    人は棄つれども君は棄てず御恵みいやまさん
    君は谷の百合峰の桜現世にたぐひもなし


 と、彼女特愛の讃美歌をロ誦ぶのであった。共時せきが出始めて苦しんだ。兄は彼女の容態を略記して見舞に来た人々に「大丈夫生命だけは」と記して返事を出した。


   (つづく)