「仲間 武内勝と吉田源治郎」(第4回)(『Think Kagawa ともに生きる』(2010年)



賀川豊彦献身100年記念事業の軌跡:Think Kagawaともに生きる』(2010/11)


           仲間 武内勝と吉田源治郎


  (前回に続く)


           賀川豊彦のお宝発見」


 昨年、「献身100年記念」の年の春、長年待ちわびていた出来事が起きました。
それは、武内勝・雪夫妻のご子息、武内祐一氏が、今日まで大切に保管しておられた「武内勝関係資料」の閲読をわたしに託されることになったのです。


 祐一氏とは、若き日に神戸イエス団教会に招聘された頃から今日まで、途切れずに友情を温めることができた同輩の方ですが、遂に「武内勝資料の閲読」の時が来たのです。その詳しい経緯もサイト上で記したので割愛し、ここではこの度の「資料」について簡単に記して置くことにいたします。


 関係資料は2つの箱に収められていました。便宜上「第一玉手箱」と「第二玉手箱」と名付け、その整理に当たりました。「第一玉手箱」は、雪夫人の筆で「賀川先生の手紙」と書かれた木箱でした。


 そこには何と、賀川豊彦とハルが生前武内勝に宛てて送った生の書簡や葉書が120通ほどまとめて収められていたのです。全くそれはわたしの予期していなかったことでしたことですので、驚きました。


 前記の武内勝口述記録『賀川豊彦とボランティア』において、賀川から届いたという書簡数通のことが、武内の口から紹介されていますが、何故かそれらの書簡類は、なぜか玉手箱には見当たりませんでしたが、しかし賀川豊彦夫妻の生の書簡が大切に残されていたことは、これだけでも大変なことでありました。


 そして「第二の玉手箱」には、有名な医師・馬島氏や遊佐敏彦氏など知友から届いた書簡や葉書類、これらも真に貴重なものばかりですが、未整理のまま保存されていました。


 また、そこには「賀川先生新川伝道同顧談」をはじめとした武内の手書きの草稿が5本、さらには大変貴重なアルバム4冊なども、愛用の丸い黒ふちの「めがね」も入っていました。


 そして私としては、前から機会あるごとに、特に武内勝氏の奥様・雪さんには、是非「武内勝さんの日記」を読ませていただきたい」と懇願してまいりましが、なんとその願いもかなって、そこには武内勝の手帳33冊と大型ノート(昭和2年から4年までの「日記」記載ほか)が残されていたのです。


 こうして私の最初の作業は、これらの諸資料をまず分類・整理し、書簡類も年代順に並べ替えてファイルに収め、武内祐一氏の了解を得て、判読可能なものはパソコンに打ち込んでいきました。


 全くの素人で慣れない作業でしたが、伴武澄氏のサポートのお陰で「献身100年記念事業オフィシヤルサイト」のなかに、「賀川豊彦のお宝発見」というコーナー設けていただき、読みやすく手を加えて、そこでアップが開始されて行きました。それが積み重なって、昨年の賀川献身100年の記念の日、2009年12月24日まで94回の連載となったのです。


 この作業には余禄満載であったのと、「武内資料の閲読」はまだまだ継続中で、上記のように2009年末でストップしております。しかし、この長期連載のあとに、不思議な新たな出来事が起こってまいりました。そこでこの項はひとまずここまでとし、次に進みます。



    (つづく)