「仲間 武内勝と吉田源治郎」(第3回)(『Think Kagawa ともに生きる』(2010年)



賀川豊彦献身100年記念事業の軌跡:Think Kagawaともに生きる』(2010/11)


          仲間 武内勝と吉田源治郎


  (前回に続く)


               武内勝の略歴


 「武内」はよく「竹内」と間違えられている場合が多くあります。雨宮栄一氏の労作『青春の賀川豊彦』(新教出版社、2003年)でも「武内」に言及した313頁以下の筒所はすべて「竹内」と誤記されています。(誤記で言えば同書318頁に拙著『賀川豊彦と現代』が「キリスト新聞社」刊と間違えられ、私の意図とはまるで違う取りあげられ方をしておられます。もちろんこれは単なる誤記ではありませんが・・。再版の折の訂正を願いたいところです。)


 そこで、武内勝の生涯に関してご存じない方のために、この度の新版『賀川豊彦とボランティア』の奥付に編者の村山牧師が書かれた「武内勝の略歴」を、ここではそのまま引いておきたいと思います。


 「武内勝
 1892年(明治25)9月、岡山県邑久郡(現瀬戸内市長船町に生まれる。
 1910年(明治43)から、賀川豊彦の同労者として、多彩な宗教・社会活動を助け、神戸における賀川の社会活動の最大の支援・後継者であった。武内は、口入屋から生まれた職業紹介所が国営に移管となるや葺合労働紹介所長となり、1951年(昭和26)4月に神戸公共職業安定所長を退職するまで、31年間にわたり「日雇
い労働者の父」として職業安定行政に従事した。
 彼は、その他に東部労働紹介所長兼西部労働紹介所長、葺合労働紹介所長、神戸公共職業紹介所長、協同牛乳社長、神戸生活協同組合長を歴任し、また、兵庫県職業安定審議会委員、同労働保険組合理事、社会福祉法人・学校法人イエス団常務理事、財団法人愛隣館理事、友愛幼児園長、神視保育園長にも任じられている。
 1966年(昭和41)3月31日、賀川の死から6年後に、武内はイエス団理事会の最中に倒れ、師を追うように他界する。」


 また昨年(2009年)、賀川の名著『友愛の政治経済学』(コープ出版)が翻訳出版され、いま話題を呼んでいますが、訳書の中の第7章「共済協同組合」の項で、賀川が神戸における武内勝の開拓的な取り組みに言及していることは記憶に新しいでしょう。しかしこれも既に「オフィシャルサイト:賀川豊彦のお宝発見」の第24回でも紹介しているので、ここでは取り上げません。


     (続く)