「『賀川豊彦と現代』その後」(3)(「火の柱」1994年月)



賀川豊彦と現代』その後(3)
    

「火の柱」1994年1月





    
   (三)


 ところで、わたしの小著では「日本キリスト教団」の問題と同時に賀川先生の「全集」(全二四巻) の発行元である「キリスト新聞社」のあり方についてもふれ、問題の正しい解き方について私見を提示させていただきました。


 御存知のように「キリスト新聞社」は、一九八二年段階で、問題提起をする人々に「全集二四巻の補遺として『賀川豊彦と部落問題資料集』を刊行する」ことを「回答」して、以来延々と「話し合い」が継続されてきましたが、小著ではこの問題の総括の視点を出してみたつもりです。


 いまですから「公表」させていただきますが、小著刊行の翌年、一九八九年二月一三日付けで「キリスト新聞社編集局」の大浦八郎氏より、次のようなお手紙をいただきました。


 「・・・賀川豊彦と部落問題に関して、部落解放センターその他関係団体との話し合いに当初から関わってきましたが、出版元の責任の問題、私自身の主体性の問題、また日本の教会(主として教団)の体質の問題、賀川豊彦の再評価の問題など、さまざまな問題を踏まえながら思考錯誤(鳥飼注〜敢えて「思考」の文字を用いて太い傍点が付されています)を続けております。 武藤富男会長は現在は文字通り名誉職となり、共に取り組んで来ました前社長谷畑も会社を去り、現社長名越(なごや)と私か中心となり、問題を担い続けていくことになりました。編集局長としての立場もあって最初から小生が中心となって外部との対応を進めて来ましたが、解決のつかない問題も多数残されています。ただ先生も『賀川豊彦と現代』の御著中に触れておられますように、この問題についても、もし歴史的洞察を欠落させたまま、当社の結論(全集補遺『資料集』刊行)を公にしてしまうことがあっては、再び重大な問題を残すことになると考えております。・・・」


 そしてさらに続けて、一度会って、意見を直接うかがいたい」ことも書かれていました。 


 残念なことにわたしは、こうしたお手紙をいただきながら、大浦氏とは出会って語り合う機会を逸してしまいました。


 先年1991年3月に、別の用件で名越社長とお会いした折に、すでに大浦氏は病没しておられたことを聞き、大変衝撃を受けました。この手紙のことを名越氏にも伝えましたが、さぞ無念な思いをいだきつつ、ご生涯を閉じられたことかと、いまもわたしは心残りがいたします。


 そして、この大浦氏亡きあと、その詳しい経緯は存じませんが、問題の「補遺」がまとめ上げられ、一応『賀川豊彦と部落差別問題』というかたちで刊行されたのでした。


 わたしはその内容を拝見して唖然とさせられたものです。「補遺」のゲラの段階で、名越氏と編集担当の方が神戸に来られて、少し事情を聞かせていただきましたが、この間の関連資料の収集のずさんさや内容の偏向性の問題と同時に、部落問題そのものに対する情報の欠如に、びっくりさせられてしまいました。


 ただただこの間、問題提起した人々への「対応」と「反省」だけに時間を費やしてこられた「誠実さ」だけが、無残なかたちで残ったという印象を与えるのみでした。ジャーナリストの一端を担うのならば、「キリスト新聞社」としてもっとオープンに情報を収集し、 動いている現実を正確に伝える責務がこの部落問題の分野でも必要であることを痛感させられました。


  (続く)