「『賀川豊彦と現代』その後」(2)(「火の柱」1994年1月)


賀川豊彦と現代』その後(2)
    

「火の柱」1994年1月



   




    (二)


 しかし、この作品を書こうとした第一の目的は、何といってもわたしの所属しています「日本キリスト教団」に見られる。賀川先生に対するあまりに乱暴な批判の横行を正すことにありました。そして、この問題の正しい解決を求めての積極的な提言をもって、真の「対話」を促そうとするものでした。


 もちろん「対話」は自由であることに値打ちがあります。ですから「応答」も強いられるべきものではありません。小著はひろく一般の方々に読まれましたが、キリスト教界には比較的届かなかったようです。


 ただ教団の責任ある立場の方のもとには、個人的にわざわざ届けられた方もあったようですから、問題が問題だけに、率直なご批判をいただくとか、オープンな「対話」の場が設けられるとかすれば、もっと建設的で愉快な展開が生れていたのではないかと思われますが、どの方からも批判的な「応答」もないまま、現在に至っていることは、わたしに取りましてはまことに残念至極というほかありません。


 しかし、もともとこういう問題の出し方には、的のはずれた根本問題が含まれているものですから、大いに不満をのこすものですが、その後急速に鎮静化して現在をむかえていることは、それはそれでよいことなのでしょう。


 わたしにとりましては、「教団」の乱暴でひきつった「批判」をいわば「反面教師」にして、あらためて先生の積極的な活動のあとを学び直すことができましたし、ますます現代的で今日的な意味を問い直させていただく契機になりました。


 例えば、部落問題の解決に向けて、現在わたしたちの地域でも、「新しいまちづくり」の課題や高齢者福祉や教育に関わる協同組合的な住民が活発に展開され始めていますが、これは賀川先生の求めてこられた「はじめの志」にぴったり呼応するものではないかという思いもあって、「賀川豊彦の「協同・友愛」『まちづくり』−―創立期の水平運動と戦前の公営住宅建設」という小論を『部落問題研究』にまとめることなどもできました。



   (続く)