「『賀川豊彦と現代』その後」(1)(「火の柱」1994年月)
『賀川豊彦と現代』その後
「火の柱」1994年1月
(一)
賀川先生の生誕一〇〇年を記念した多彩な集いが持たれたのは、もう五年以上も前のことです。そのおり、神戸ポートアイランドホテルで開催された「イエスの友」夏期聖修会での全体協議において、はからずもわたくしは、「新しい人権の確立を求めて」と題してお話をさせていただく機会がありました。本紙にもわざわざテープをおこして、つたない話を二回にわけて掲載してくださいました。
このたび、編集にあたられる金子先生から、その後の「部落問題と賀川豊彦」について、自由に書くよう依頼を受けました。以下、わたしの近況報告のつもりで、お求めにお応えしたいと思います。
あのときは丁度、小さな作品「賀川豊彦と現代」を出版した直後でした。思いのほかこの作品は、多くの方々の目に留まり、全国各地の新聞などにも紹介されるなどして、予想外の反響をいただきました。
しかも、これは決して研究的な本でもありませんのに、歴史研究などの専門誌にまで、好意的な論評をいただき赤面させられもいたしました。いまだに求められつづけていて不思議な感じがいたします。
これはもちろん、わたしの作品の価値というより、人々の賀川先生への思いがそうさせているわけですが、随分多くの「余録」が、これには付随して与えられました。なかでも、わたしにとって最もうれしい経験は、読んでいただいた方々からの誠意のこもった言葉に出会えたことでした。
例えば、あるかたは「これまで自分は、このことについて黙って過ごしてきたが、自分が思っていたことを、あなたははっきり書いてくれた・・・・」「賀川豊彦について、あらためて新しい関心がわいてきた」「あなたのような考え方があることに、新鮮な驚きを覚えました。同和問題に対して、もっと開かれた理解の仕方が必要だと思いました」などなど。
こうして、これをご縁にしてたくさんの人々との交流がはじまり、先生のふるさと徳島では同和地域の青年たちを含めた集いに招かれて、はじめて賀川先生のお墓に墓参をさせていただいたり、尼崎の公民館では四回の連続講座を担当させていただいたり、近くより遠方より、実にたくさんのたのしい「余録」をいただきました。
(つづく)