「新しい人権の確立を求めて」(10)(「火の柱」1988年9月10月)


新しい人権の確立を求めて」(10)


1988年8月3日−全体協議・発題−



     




(前回に続く)             
 

 部落問題そのものについての調査・研究は、私は専らそのことに打ち込んでまいりましたが、特に宗教関係の方々は部落問題そのものについての調査・研究という関心は、なぜか薄いように思います。


 部落問題は現在どのような現状にあるのか、部落問題とはそもそもどういうことであるのか、部落問題を解決するとはどういうことをいうのかといった基本的なことについて自分で調べてみるということは、宗教界の皆さんは熱心ではありません。


 それは決して容易ではありませんが、そういう基礎的なことをコッコッと知っていく努力というものは、大事なことですし、不可欠なことです。解放運動団体などがそれらの問題把握をしたものに、ただイデオロギッシュに乗っかて突っ走るようなことは避けなければなりません。


 社会運動の場合はそのことが重要なことですし、それに取り組もうとする宗教者は、宗教理解そのものの深い省察がともなわなければ、二重の過ちを犯してしまうことになります。


 まとまりのないお話を続けましたが、最初に申し上げましたように、賀川豊彦から学んだ大事なことは、この困難な課題に取り組むには、ただテーマだけを追うような、悲しき面持ちで、しかめっ面で取り組みのではなく、腹のそこから喜んで共に生きてゆくということが本当に大事だと思います。


 賀川豊彦の書き残しているように、ごく自然に、風のように生きてゆく。無理がないという生き方が大事だと思います。対話をかさねながら、友達をつくってゆく。


 「イエスの友」というのは友達作りですね。単にそれは事業を成功させるとかいうのではなく、むしろいつも新しいものを、まだ無いものを新しく創り出してゆく。新しいものに挑戦してゆく。ユーモアとチャレンヂと申しましたが、塩になって消えていくことを潔しとして、その信ずるところをずんずん進んでいく、ということでしょうか。


 大変走ったお話で分かりにくかったかも知れませんが、ひとまずこれで終わりたいと思います。