「新しい人権の確立をめざして」(8)(「火の柱」1988年9月10月)



新しい人権の確立を求めて」(8)


1988年8月3日−全体協議・発題−



          



(前回に続く)             
 

 賀川豊彦は、今もうしましたように部落解放運動の出発となった全国水平社運動の担い手となった青年たちとの交流があって、その創立にも一定の役割を果たしていたことは、歴史的な事実として覚えておかなければなりませんが、私は狭い意味の部落解放運動というのではなく、部落問題の解決という基本的な事柄として、それまで不当に基本的人権が侵害されてきた諸問題、それは住宅を中心とした生活環境は言うまでもなく、仕事、教育、福祉、医療など、それらの生活問題を解決していくために、熱心に最初から、取り組んできた、ということが、私たちには最も大きな賀川豊彦の貢献だったことを、知らされております。


 明治の末から大正初期、水平運動が始まる前から、小さな取り組みとはいえ、地道にその働きを積み重ねて、開拓的な消費組合運動や農民組合運動、労働運動へと彼の活動は広がりをみせていきました。


 水平運動が始まったのは、それまでの賀川のような取り組みは単なる「改善運動」であり「融和運動」であるとして、それらを根本的に超克する新しい部落解放運動であるとして、固有の部落解放運動から「融和運動」を否定する方向性を前面に出して進んでまいりました。


 そのことは確かに重要な視点でありますが、特に戦後1960年代からの国を挙げてのこの問題の解決の進展は、専ら賀川豊彦の進めようとしてきた住民の自立を促す働きとピッタリ呼応して進んでまいりました。


 こうした捉え方は、現在の日本基督教団の中で「賀川問題」として問題しされる方々のなかには、全く抜け落ちていることですが、今回この著作を書き下ろす場合の大事な視点でもあるのです。


 そういう意味では、「水平運動史研究」とか、部落解放運動史の中に、賀川豊彦が正当な位置をしめるようになればいいな、という願いもなくはないのです。本文の中にも、そのことは少し書き記して置きましたけれども。


   (続く)