「新しい人権の確立をめざして」(7)(「火の柱」1988年9月10月)


新しい人権の確立を求めて」(7)


1988年8月3日−全体協議・発題−



          



 (前回に続く)             
 

 ご承知の方も多いと思いますが、部落解放運動の中では忘れられない、全国水平社の創立とその闘いがあります。1922年、大正11年3月3日のことですね。


 創立の準備が、賀川豊彦の自宅で行われたということが、当時農民運動に賀川と共に立ち上がった杉山元治郎さんの自伝的な文章のなかに書き残されていますが、全国水平社の創立宣言を書き上げた西光万吉さんや、「水平社」という名付け親としても知られる阪本清一郎さん、そしてこの前なくなりました米田富さんとか、色んな方々が賀川先生の生き方にインパクトを与えられて、部落解放運動に立ち上がっていきました。


 ついこの前、その水平社運動でも、また戦後早く部落問題研究所を京都に設立して大きなお仕事を続けて来られた木村京太郎という方がおられます。木村さんがわたちのこの旅の本――『賀川豊彦と現代』――を読んで下さって、是非私に会いたいと言ってお電話をいただいたものですから京都まで出掛けて、ご高齢の木村京太郎さんの聞きとりをさせていただきました。


 二時間あまり、京都の部落問題研究所でおあいして、熱をこめたお話に、強い感銘を受けました。木村さんも賀川と同じように、若いころに結核に罹り悩んでいた時、賀川の小説「死線を越えて」を読んで、ああいう生き方が実際にあるんだ、と心打たれたこと、当時は「懺悔の生活」などの西田天香さんの本などもあってよく読み、中でも賀川さんの書物は、自分の生き方を決定づけるものになったことを、お話になりました。


 「自分を捨てて生きる」あの生き方は、ずっといまでも大きな力になっていることを、熱く語られました。「部落解放運動の中でも、私を捨てられない落とし穴」のある中、特にこの木村京太郎さんの場合は、これまで本当に地味で心打たれる裏方として貫ぬかれた御方であることは、私はずっと思ってきましたが、そういう青春時代の木村さんの内心の出来事のあったことを教えられて、感動いたしました。


 部落問題の解決のために立ち上がり、賀川豊彦の影響を強く受けた人々は数えあげればきりがありませんが、労働運動や農民運動、そして消費組合運動など、幅広い人々の心に強い影響と刺激を与えたのは、改めて申し上げるまでもないことです。


 しかし多くの場合、そうしたことに付いてはあまり注目されていません。部落解放運動史、いわゆる水平運動史の分野でも、賀川豊彦の働きについては、賀川の名前は「力」の字も出て来ないですね。運動の歴史の中では正当な位置づけがなされていません。



   (次回に続く)