「新しい人権の確立を求めて」(6)(「火の柱」1988年9月・10月)


新しい人権の確立を求めて」(6


1988年8月3日−全体協議・発題−






(前回に続く)             
 

 賀川豊彦の幅広い働きのバックには、賀川独自の「贖罪愛」という非常にユニークな、それまで日本のキリスト教史の中ではなかったような、非常に行為的な贖罪愛理解というものがあります。それは当然、単にクリスチャンだけではなくて、非常に多くの人にインパクトを与えるものでした。


 賀川がいつも「雲の柱の導くままに」という言葉と絵を揮毫してまいりましたが、ここのところを闡明に理解しませんと、多方面に、例えば水平運動などにかかわられていく全体的な、統合的な生涯を見る目、軸となる核となるところを、がばっとつかむことがなければ、理解出来ません。


 つまり「雲の柱の導くままに」という意味合いの面白さは、このところを掴みませんと、何かしら賀川豊彦は、時代の時流に乗って生きたにすぎないという批判だけが出て、そこにとどまってしまうのではないか、というふうな感じも致します。


 私の田舎の鳥取の農村でも、賀川と共に「立体農業」の取り組みに打ち込んでこられた藤崎盛一先生がこられて、高校時代いちどお会いしましたけれど、とにかく津々浦々に、賀川の「生き方・生きる工夫のメッセージ」というものが形になって表現されていきました。彼は単にキリスト教の牧師ではなくて、国民的と申しますか大衆的な牧師として、一味違った男のイメージが、人々を強烈に引きつけていったのだと、思います。

 
 部落問題に限って申しましても、このあたりのところは歴史的な事実として見ておかなければならないと思います。私が今回書き下ろした『賀川豊彦と現代』におきましては、出来る限り、賀川の神戸時代にしぼってフォローして見ました。これは私自身の勝手な読み込みもあって、おかしな評伝になってしまっているのですが、ことに「賀川豊彦と部落問題」焦点を絞って書き下ろして見たのですが、賀川の部落問題の解決に関わって、それに深い共鳴をもって立ち上がっていった方々のあったことも、だんだん明らかになってまいりました。