「新しい人権の確立を求めて」(4)(「火の柱」1988年9月・10月)



新しい人権の確立を求めて」(4)


1988年8月3日−全体協議・発題−



       




(前回に続く)             

 
 本日の題を「新しい人権の確立を求めて」とつけさせて頂きました。


 この人権問題と言いますか、特に部落問題にかかわってお話をするのに特に短かくても申し上げておかなくてはならないことがあります。レジュメの最初の所に賀川豊彦の「自己理解」とか、「世界把握の新しさ」とか書いておきました。


 この三日間参加して、特に昨日のバネルデスカッションは刺激的なものでしたが、賀川豊彦の思想の新しさ・ユニークさというものについて、私も興味がございます。そこのところの「自己理解」「世界把握」のユニークな部分をガッとつかまなければ、分からない。或いは、あの様に自由に生きられた「賀川豊彦の謎」ですね、そこをつかむということがなければ、或は目をとめるということがなければ、今日キリスト教界で跋扈している「単なる批判」になったり、ただ無理解を暴露するだけになると思う訳です。


 私はその中で特に先生の神理解というか、特にイエスという方についての関心の目のおき所というところに、大変興味深く思っています。


 賀川のお祈りをまとめたポケット版の美しい著書のひとつ、箱入りの「神との対座」という本が、警醒社書店から出ております。村島さんが筆記されて仕上げられた書物です。小さなものですけれど、大きな作品ですね。


 このイエスの友の集りでは、賀川の祈祷よく似ていて、とても面白いものです。賀川にはこういう祈りが一貫しているように思えて、興味深く思っています。イエスというお方がお祈りをなさるのは「アバ、父よ」、「お父さん」というお祈りだったんだということはよくご存知のとおりです。そのイエスの信仰、行為、その秘密を賀川先生は若い時に見つけられた、発見されたと思います。


 この発見の喜びは、賀川豊彦の出発点、スタートだったと思います。私たちがどのような逆境に置かれたり、またその逆の順境の中にあろうとも、こちらにはよらず一方的に神様が共におられて、共に働いておられる、そういうリアリティーに驚きの目で受け入れておられる。そんなところが賀川豊彦のあの自由な歩みの秘密だったと思っています。


 そのところの意味ありを「イエスの友」という信徒運動は突き動かされているように思います。賀川自身が「イエスの友」でした。「イエスの信仰と生き方」に捉えられ、そのダイナミックスに巻き込まれて、あのように神の恵みの内に、冒険的に、そして創造的に生きてゆく、そういう面白い歩みが賀川豊彦の七〇年間あったのではないか。私にはそのように思えるのです。


  (続く)