「トタン屋根の下から甦る」(松沢資料館ニュース」1996年3月)



 トタン屋根の下から甦る


    賀川豊彦記念・松沢資料館資料館ニュース
      1996年3月1日 NO。39





               番町出合いの家牧師 鳥飼 慶陽

 
 「・・神と宇宙全体を修復する任務を私達人間が負わされていると自覚した以上、私達は勇敢に任務につきます・・トタン屋根の下から甦るのだ・・」


 震災当日、自宅ベランダから写す。自宅のあった14F建ビルは今はない・・・
      (地震当日1月17日筆者写す)


 全く予期しない大震災の直撃を受け、被災経験を強いられることになりました。目の前が一面焼け野原となった長田区「菅原商店街」で、寝場所をさがしてさ迷った日々がいまも脳裏からはなれません。


 あの日から一年が経過しました。賀川先生があの関東大震災の[救護活動]のため東京に移り住み、イエスの友会の皆さんらと共に多彩な活動を展開された中で記された、いくつかの文章“震災後一年間の回顧”と副題のつく「日の下に新しきものなし」や「救護運動を顧みて」などのレポートを目にしますと、関東大震災阪神大震災とがそっくり二重映しになり恐ろしさを覚えます。その傷跡は深く、生活の再建と街の復興はこれからです。


 しかしまた、関東大震災のときの賀川先生を中心とした「本所基督教産業青年会」の幅広い継続的な取り組みを知らされます時、私たちもまた、現代の新しい「創造的復興」に向けた働きに積極的に参加していく勇気と情熱を促されもいたします。


 昨年夏、発行された本誌「資料館ニュース」で、村出盛嗣・賀川記念館館長が、賀川先生の被災現場から激烈なことば――[あヽ紅蓮に追い立てられ、被服廠に集まった四万の生霊の為に、私は神に謝罪を要求する!]――を取り上げ、先生がなぜ、震災を契機に「救護活動」のため神戸を離れざるを得なかったその真意を知りえたことなどを書かれ、強く感銘を受けました。


 ところで私もこの度、多くの人々がそうしたように、被災体験の中であのヨブ記を読みました。そして、賀川先生が関東大震災の後、最初に出版されたヨブ記研究『苦難に対する態度』を取り出して読みました。大震災後3ヶ月の後「本所松倉町バラックにて」と記された「序」が添えられ、先生御白身の筆で成る、実に味のある作品です。


 「山と盛り上げられた白骨の前に立ちて、私は言葉もなく、涙ぐむ。 ・・まだ、そこここに注意して見ると人間の骨片が出てくる。3万4千人が一度に焼き殺されたと云うその惨状を思い浮かべて、私は言い現すべき言葉もない。・・私はそれに就いてわからぬことが多くある。然し私はかく信じたい。神は、この苦痛を以つてしてもなお、愛であるとー。・・苦難はそれのみが終点ではない・・生命は苦痛よりも強い。被服廠跡にまた青草が萌え出て、バラックの中に人間が群がる。生命は火焔より強い。 ・・失望するなよ、若き魂よ、神はかつて失望したことが無いではないか!・・栄光の苦難に参与せよ・・苦き杯を逃げるな、・・破壊しても破壊しても尚建設の根拠を持つ大きな創造主(クリエーター)否、苦痛の中に大きな建設する神、それは生命である‥。」
 

 このヨブ記研究は、大震災直前に東山荘で開催された第1回イエスの友夏季修養会で先生の連続講義があり、特に38章の「汝、裳裾をひっからげて、ますちおの如くなれ」という合い言葉が生まれ、この熱い思いが覚めやらぬ間に大震災が起こり、イエスの友の修養会に参加した人々が核になって救護活動が準備されたものだとも教えられ、あらためてこの作品が際立って、私には近いものになりました。


 先の村山館長が引かれた「私ぱ神に謝罪を要求する!」の文章は、散文詩鳳凰は灰塵より甦る」からのもので、まさにこれは先生の「祈り」であり、現代のヨブ記だと思えるのです。