『賀川豊彦と現代』紹介批評テキスト化分(9)木村京太郎『月刊部落問題』1988年9月号




賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌(9)


「月刊部落問題」(1988年9月号)


      テキスト化分




           賀川豊彦のことなど


            木村京太郎さんに聴く


              きき手・鳥飼慶陽(当研究所事務局長)
    -1988年5月28日-(於・部落問題研究所)


 京都の高野橋の近くにある部落問題研究所で、本村さんのお元気なお話をうかがったのは、ご逝去の2週間ほど前のことでした。「当時を偲び、『死線を越えて』など愛読した感銘など語ることができたら」という5月21日付のお手紙をうけて、聴き取りが実現しました。小著『賀川豊彦と現代』も読んでいただいた上に、わざわざこのような機会をつくって下さったご好意に感激しながら、本村さんのお話に二時間近く聴き入りました。

 
 これは、本村さんの打ち明け話のようなことで、公表するためにはご本人にお目通しいただかねばなりませんが、今ではそれもかないません。その点不充分なままですが、このまま本誌に収めさせていただきます。


 ご質問をいくつか用意して、次の機会にそれにお答えいただくお約束でしたのに残念至極です。大きな足跡を残された生前のご遺徳を偲びつつ、ここに感謝の意を表させていただきたく存じます。
                             鳥飼慶陽


              *       *


              小見山富恵のこと


 私、耳が聞こえないのでひとりしゃべることになると思います。話は簡単にして、いろいろご質問していただいて、憶えていることなんか話したいと思います。


 この頃もうろくして、本を読んでも順に入りませんが、しかし賀川豊彦ということになると、私もかなり影響を受けていますから、その思い出が何かのお役に立てば、と思います。そして、もひとつ、神戸における小林出身の諸君たちが、どのような気持だったか、という点ですね。私自身は、賀川さんとは直接面談したことはないんですが、色んな本を読み、また講演も聞いていますし、そういう思い出もまじえてお話してみたいと思います。


 賀川さんが新川におった時に、高橋貞樹君の妻君になった小見山富恵という方が、一年余り、賀川さんが出されていた機関誌の編集に当っていて、震災の折に小見山さんが賀川さんの紹介で『女性改造』という、当時の左翼の婦人記者として、堺利彦とか山川均とか荒畑寒村とかと知り合って、私の記憶で間違いがなかったら、関東大震災で焼け出されたのが縁になって、山川さんの家で『女性改造』の記者たちがしょっちゅう出入りしておって、小見山さんは高橋君と正式な結婚じゃないけれども夫婦になって……。そうした昔のことを思い出して、ひとつおいでになった時に聞いておいていただいたらと、私もことし八六になってね、言いたいことを言い、思っていることを断片的であっても、誰かに聞いておいてもらって、それを参考にしてほしいと。そういうことで、賀川さんのこともいくつか知っていることを申し上げてみたいと思います。


              神戸と私の郷里


 話はとびとびになりますが、賀川が生きた時代ですね、明治の終わりから大正の初めにかけてですね。不思議に思うのは、共産党の名誉委員長の野坂さんと良く似ているんですね。一方はキリスト教で、一方はマルクシズムだし、申し上げることは多々あるんですが……。


 そういうことは余談にして、部落解放運動と賀川豊彦という関係の点について、まずお話しておきたいと思います。賀川豊彦が神戸で伝道をやっていた、それが『死線を越えて』になっておるわけですが、ちょうど私の生まれた奈良県の小林からは、ずいぶんと神戸にむけて移住しているわけなんです。村の人口から言ったら、残っている人口よりも多いほどの人たちが神戸の街に散在しとるんですわ。その中心は新川とその周辺でした。


 それはちょうど――話はとびとびになりますけどね――大正三年に世界大戦が始まって、四年・五年で日本が青島を侵略してからですね。戦争らしい戦争せんと連合国側にむけて物資・弾薬を送るなどして、ずいぶんと成り金が出てきておった。売り込むためには物をこしらえる。それを送る船を造る。また軍鑑を造る。そういうかたちで、神戸は造船と貿易の中心だったわけです。


 その頃、私も郷里の高等小学校を卒業して、上の学校に行けないから自分で勉強しようと思ってね。神戸に行っている友達や親類がいるから、そうした縁故をたどってよく遊びに行ったんですよ。


               無我の奉仕


 そして、私の生涯を一変さしたということは、賀川豊彦が肺病で自分の生命を考えずにクリスチャンとしての伝道生活に入った、それにひきつけられたわけです。だから、私の生涯を一変させたのも、賀川豊彦の『死線を越えて』なんです。


 というのは、私も胸をわずらっておったから、大阪の石川病院とか阪大の病院とか、京都の病院とかかようてですね、病気を治そうと努力したんだけれども、しかしこの結核は、薬やなんで治る時代ではなかったわけです。だからもう自分は死んでもその覚悟だというかたちで、青年団活動に打ち込んで、いわゆる「無我の奉仕」というかたちで、賀川豊彦の『死線を越えて』とか西田天香の『懺悔の生活』とか倉田百三の『出家とその弟子』とか、そういうような世界観というんか宇宙観が変わって、私も自分の個人的な自分ひとりの病気を治そうというのでなしに、生きているうちに生きがいのある生活をしようと、そういうことで青年団活動をやりはじめたわけです。


 大正五年に学校を出て、水平社に入る大正一一年まで、そういうかたちで、「無我の奉仕」といったらロはばったいけどね、自分がいつ死んでも、その時の思いとして。“惜しまれて散るべきときに散りてこそ花も花なり人も人なり”というように、賀川豊彦の『死線を越えて』にそういう面で共鳴したわけなんです。


           ″神戸神戸と草木もなびく…“


 当時、日露戦争で日本が勝ったけれども、戦後は社会的には困窮をきたして、国民全休に勤倹節約を強制して、そうしたことに対して反発するところの社会主義運動が出てきた。それを弾圧するために、あの大逆事件も起きてきた。そうした中で、野坂さんにしても、賀川さんにしても、歩む方向は違ってもですね、なんとかして国民の生活並びに考え方を変えなきゃいかんということで、運動をすすめるのですね。


 前にも言いましたが、神戸には全国から次々と転入してくるわけです。賀川豊彦も徳島から神戸にもどってくるわけですが、私の村の大正の初めは、火の消えたような状態で、神戸で神戸製鋼所、三菱造船所、川崎造船所、またダンロップとか、そういう工場では人が必要なんですね。だから、その労働力の供給地として地方があてられたわけです。


 ところが、その当時は差別がきついから、正当な職工に採用されない。今のように職業紹介はなくて、いわゆる縁故就職なんです。最初、神戸市内の塵芥、それから屎尿ですね。こえくみとごみとりというかたちで就職して、まあ仕事にありつき生活が安定する。この仕事は朝早く、入が起きないうちにやらなければならない。朝の間にそれをすまして、余った時間に履き物の製造をやる。


 元来、私どものところは、麻わらぞうりの製造の本場で、近くに共有林があって、松とか檜とかがあればともかく、植林がしてなかったので藤づるが巻きついて、藤の皮をはいで、それを叩いて吉野川のいかだにしたり、履き物にしたりすることが本場なんですね。その仕事を、神戸で午後の内職としてやっていた。ところが、それの需要が多く、うちの小林から村の火が消えるほど移住したわけです。南本町、北本町、日暮通、旭通というように、葺合区を中心に、お互いに部落を隠してね。“神戸神戸と草木もなびく、神戸狭かろ大和衆で”(注−「草本木なびく」は「皆行ってしまう」か)とうたわれたほど、大和の人たちが神戸へ転住したのです。


 男の人は、先ほど言ったように市役所のごみとりとこえくみ、沖仲仕、おんな子供はマッチエ場で働き、生活に困らんと、ドンドン神戸に入っているわけです。私の兄貴も親類のものも一家をあげて神戸に転住しとるんです。そういうことで、部落との関係は密接なんです。


              再び小見山さんのこと


 そういうことで、小林の諸君たちが住んでいる葺合区が、賀川豊彦の伝道の中心地なんです。賀川豊彦人道主義的な立場から無我の行者としてドンドン活躍していった。単にキリストの教えを説くだけではなくて、消費組合をおこしたり、覚醒婦人協会をつくったり、色々な事業をやったのですね。最初に言いました小見山さんなんかも、それにひきつけられて、新川で一年余り賀川さん、特に賀川ハル子さんと親しくしておられた。


 震災で、賀川さんが東京へ救援のために行き、小見山さんも賀川さんによばれて東京へ。賀川さんが、改造社の山本さんに小見山さんの紹介状を書いて、賤別に当時ではめすらしい高価な金ペンをあげて、小見山さんは大いによろこんだ。金ペンは、記者生活で一番必需品だったからね。


 小見出さんは高橋君と結婚して、高橋君がソビエトに行って三年間留学して、帰ってから四・一六事件の被疑者として監獄にぶちこまれ、そして昭和一〇年に、ちょうど私が刑務所から帰った年の一一月に、高橋君は死んでるわけです。監獄の寒さと栄養失調、それに医者の無策で死んでるんです。


 葺合の貧民窟の諸君たちとの交渉が、部落との交渉になり、またこの部落の中でも小林の諸君が多くいた。それも、部落民だからというんじゃなしに、貧民救済というかたちで、またキリスト教の伝道というかたちで影響か強かったですね。

             賀川豊彦と水平社


 それから、私は直接賀川さんとお話したことがないけど、ちょうど水平社ができるときに、阪本さんや西光さんらが「燕会」をつくって、消費組合を第一番にはじめたわけです。その時に、賀川さんのやっている消費組合の運動並びにやり方に色々と教えを乞うたということは、よく知られていることです。私もその運動のまねごとのようなことをして、村の人の石けんとか日用品を安く供給して、村の青年団の資金づくりにもしたりしました。


 また、水平社ができたのは大正一一年三月ですが、賀川さんは四月九日に神戸で日本農民組合の創立があって、その創立の発起人として活躍された。それから、話は前後しますが、川崎・三菱の大争議でも大きなセンセーションをまきおこした。


 そうして、賀川さんが水平社の演説会に何日も、私らの住んでいるところに来られて、御所市の寿座では、賀川さんの他にも朝日新聞社の小田切しょうろくとか大阪時事新報の社会部長の難波英夫さんとか、毎日新聞の村山ちゅうきちとか錚々たる大たちを招いて講演会を拓いたんです(注−大正十一年五月二一日)。


 ちょうどこの時は、私は大正村の騒擾事件で投獄されとったから、それを批判する演説会をやると。そのように、賀川さんと水平社との関係は、阪本・西光を通じて密接なものがあったわけなんです。


 ところが、あの賀川さんは無抵抗主義でしょう。こっちは徹底的糾弾で、意志の疎通というところまではいかなくても、こちらからよばれた時は、よろこんで来てくれました。


            真面目にしておけば


 私はあれからずっと、戦前、戦後仕事に没頭して現在に来ています。その間、家の生活のことは全然考えずに、無我の奉仕というんかね、賀川さんやら西田天香のような宗教的といったらちょっとおかしいのですが、我が身勝手な奉仕活動をやってきた。一番苦労をかけたのは、私の家内なんですわ。


 それでも、思いますのは、世の中というものは、悪いことをしたら因果応報でいつかは罰せられる。ところが、真面目にしておればいつかは報いられるということですね。これは自己満足かも知れませんが、そう思います。


 このあいだ、寿岳文章先生からダンテの神曲の三冊を贈っていただいて、有難い思いをいたしました。私は、耳は悪いし足も不自由ですが、もしも生きていたら、今年の広島の原水禁大会に参加したいと思っています。


 次の機会は、色々と質問をしていただいて、それに答えるかたちで補充させてもらいたいと思います。こんどの時、賀川さんの『死線を越えて』を持っているので、あなたにさしあげてもいいし、生きていたらいつでもお会いできますし・・・。幸いにして内部的疾患はないし、また話し合いたいと思います。それだけが、私らの使命だと思っています。