『賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌テキスト化分(8)鈴木良「月刊部落問題」1988年9月号


賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌(8)


 「月刊部落問題」(1988年9月号)

      テキスト化分


           賀川豊彦と水平運動


        ――鳥飼慶陽『賀川豊彦と現代』によせて


                     鈴 木  良


 鳥飼慶陽氏のこの新著を、私は一気に読み、そして深く考えさせられた。賀川の生き方と思想を歴史的に、つまり変化するものとして確定し、そこから賀川の「成り立ちの基礎」を見きわめようとする方法は大きな効果をあげ、賀川豊彦の実像を解明する上に豊かな貢献をしている。私は別の短い書評で、本書のもっているすぐれた特色についてふれたので、ここではそれをくり返すことはしない。


 しかし、私どものような門外漢からみても、日本キリスト教界の「差別者賀川」批判はきわめて異常である。鳥飼氏は、そうした風潮を批判するのに、物静かに歴史的事実を対置してゆく。そしてキリスト教界の賀川批判は根拠がないことを述べて、そこから賀川のもった役割を見きわめようとしている。こうした批判と究明の方法は、きわめて歴史的なものであり、したがって本書は歴史研究、とりわけ水平運動史に大きな刺戟を与えるものとなっている。


 この小稿では、水平運動史上の事実について検討し、若干の新しい知見を提示して、賀川研究の深化に貢献したいと思う。そうすることが本書の著者の問題提起に答えることだ、と考えるからである。


                 一、


 賀川豊彦が水平社創立の過程で一定の役割を果したことは、よく知られている。
 私の故阪本清一郎からの聞き取リメモによると、次のように語られている。


 「『死線を越えて』を読んで、賀川に会いにゆこうということになった。神戸の新川に西光、阪本、池田吉作の三人が訪ねた。世間には売名的なくわせ者が多いから、偽善者かどうかたしかめにいったんです。賀川の眼は、トラホームでただれていて、この人は本物だと感じました」。


 この文中の池田吉作は燕会同人である。『死線を越えて』は、一九二〇年一〇月に刊行された。すると、西光、阪本らが新川に賀川を訪問したのは、その後のこととなるが正確な日取りはわからない。もっとも、『死線を越えて』は『改造』に同年一月から連載されていたのだから、この方を西光・阪本らが読んでいた可能性も強い。


 拙稿「水平社創立について」(『立命館大学人文科学研究所紀要』第四三号)で述べたように、西光・阪本らが柏原北方に燕会を作ったのは、同年五月のことであり、はじめは団体旅行をするだけだったのが、九月からは資金融資が始まり、同人相互で低利で金融を行なうようになり、翌一〇月からは消費組合部の共同購入が始まっている。『改造』連載を読んだのがきっかけであったと推定しておく。


 本書の著者は、この時に賀川を訪問したのが西光、阪本、駒井らであるとしている。駒井が参加していたことは、賀川が「古くから私の知っている方」だと述べていることでわかる(『雲の柱』大正二一年二月、『賀川豊彦全集』24、一九頁)。だとすれば、私のさきの引用と合わせると、この時新川を訪問した四人とは、西光万古、阪本清一郎、駒井喜作、池田吉作の四名であったと推定出来る。


 この時に賀川から彼らが学んだのが、消費組合活動の仕方であったというのが通説になっている。私か前掲論文であきらかにしたように、奈良県南葛城郡掖上村の柏原北方部落(当時戸数約二〇〇戸、人口一一〇〇入余)に燕会という自主的団体が一九二〇年五月に創立され、賀川の教えを受けて同年一〇月から消費組合活動を開始したのである。


 この消費組合が「相互扶助」を目的とするもので、「関西地方ではもっとも早い時期の消費組合」であること(前掲拙稿)がわかっている。私もながらくこう考えてきた。しかし賀川の役割は、消費組合活動のあり方を教えたに過ぎなかったのであろうか。


 燕会の会則、決議というものがある。これは『つばめ会に就て(第一回決算(成績)報告)』(一九二二年九月)に載っている。一九二〇年に作られたものと考えられるが、会則によると燕会は同人制をとり、「会の試みは、会によって定めたる会長及主事及当番によってなすこと」とある。主事という役職のよび方に賀川のアドバイスが感じられる。


 さらに決議には「本会は相互扶助を以てその存在理由とす」とある。燕会の活動は四つあった。その第一は低利金融、第二は消費組合、第三は団体旅行、第四は「夜話及講演」であった。「夜話及講演」については、次の説明があった。


 「夜話は会場にて行ふ十四日の例会に対し、五日の夜巡回当番の家にて、成る可く多く集って話し合うこと、講演会は不定期にて、成る可くオープン・フォラムの形式による」。


 これなども賀川の教示にもとづいたものではなかったろうか。前掲論文では、私は次のように書いていた。


 「さらに推測を重ねるならば、賀川豊彦がこうした自主的な団体(燕会)の設立の必要を教えたのかも知れない」と。すなわち、燕会設立自体が賀川の示喚によるのではないかと推定していたのである。


 私か鳥飼氏のこの本から教えられたことの一つは、同じことがらを賀川の側からも追求することである。


 「大正八年(九年の誤り)新見(賀川のこと)が大阪で消費組合運動を初めた時、御坊(御所の誤り)の同志四人が、消費組合を教へてくれと言って、神戸葺合新川の家まで尋ねて来られたのであつたが、この四人が、大和の水平運動を絶叫して立ち、新見の考へてゐるやうな協同組合精神をまどろつこいとして、圧迫者に対する憎悪の福音を説き始めた。この憎悪の福音が新見の胸を痛めた。しかし、一面から言へばまた無理のないことだと思った。村にゐて八割以上は土地を持たず、都市に住んでゐて幾百年の間社会的侮蔑に苦んで来た人々にとって、贖罪愛の福音は、余りにも軟弱に響いたのであった。……新見はこの人たちに真の解放は、愛と奉仕の外にないといふことを繰り返して説いたけれども聞き入れてくれなかった。それが彼を悲しませたに(『石の枕を立てて』全集19、一九八二年、第一版第三刷、三三五頁)


 賀川は「愛と奉仕」による「協同組合精神」を「繰り返し説いた」けれども、それは「余りに軟弱に響いた」ので、西光、阪本らは「圧迫者に対する憎悪の福音」を説きはじめたという。ここからみると、賀川は何回も協同組合とその精神を西光万吉ら柏原グループの人々に語ったであろうことが推定される。賀川はたんに消費組合のやり方を教えたのではない。水平社の母胎である燕会の自主的活動を教えたのであるといえるのではないか。これが本書の刺戟で、私か考えた点の一つである。


                 二


 水平社創立の思想を全体としてあきらかにする仕事は、なお今後の課題となっている。水平社創立趣意書『よき日の為めに』の分析から、ロマン・ロラン、ゴリキーなどのヨーロッパの民主々義思想、仏教思想の役割などがあきらかとなっている。水平社創立者たちの思想的立場が、たんに差別する者を徹底的に糾弾すればよいとするものでなかったことは、あらためて述べるまでもないであろう(さしあたり、前田一良「水平社宣言の思想」(『水平運動史の研究』第五巻所収)を参照)。


 しかし運動は、それ自体の発展の法則をもっている。部落大衆の部落差別への憤りは、眼前の差別者に抗議するところからしか出発出来なかった。したがって著者が、「水平運動の初期にあっては、部落差別の本質はおくれた人びとの偏見にあるものとみなし、差別者個人に対する徹底的糾弾をつみかさねている差別観念は一掃できるものと確信していた」(一二五頁)と述べているのは正確な評価である。


 協同組合精神による燕会の活動を重ねてゆけば「真の解放」に到達出来るという賀川の教えは、徹底糾弾の考えによって一度は脇にどけられてしまう。この徹底的糾弾闘争がどのように水平運動の戦術として定着していったのかは、別に詳細な究明を要する問題であるが、ここではふれることが出来ない。


 しかし、著者も指摘しているように、徹底的糾弾闘争は個人糾弾を主とし、そのためはげしい闘争がやられればやられるほど、差別的感情はふかく沈澱し、「部落との対立の溝が深められることにもなった」(一二六頁)のである。注意しておくべきことは、さきに引用した『石の枕を立てて』のなかの賀川の表現、「圧迫者に対する憎悪の福音」という言葉である。「憎悪の福音」という言葉は、賀川の用例に即して正確に理解されなければならないが、私も著者と同じく、差別をする者とされる者という区分に反対し、したがって徹底的個人糾弾に反対して、賀川は「愛と奉仕」のなかに「贖罪愛の福音」をみたのであると思う。


 なるほど初期水平運動は、徹底的糾弾闘争を戦術として拡大した。そのため賀川が教えた、協同組合精神による燕会の活動は側面にしりぞけられた。しかし、西光万吉ら水平運動の指導者たちは、徹底的糾弾をもってこれでよしとしたのではなかった。初期の徹底的糾弾闘争の誤りを克服する方向を見出そうとして西光らの指導者は早くから努力を続けていたのである。


 こうした水平運動の発展への転機は、水平社を生んだ奈良県の場合、一九二二(大正一一)年末にやってくる。この年五月、大正高小事件がおこり、木村京太郎ら七名が騒擾罪などで起訴された。この事件の原因、背景などについては拙著『近代日本部落問題研究序説』第Ⅱ部を見られたい。


 この事件を糾弾する奈良県水平社主催の演説会は二回行われている。一回目は五月二一日で、御所町寿座で開かれている。二回目は一二月二一日で同じ寿座で聞かれている。


 一二月二一日の演説会は、一一月三〇日から奈良地裁で公判が聞かれていて傍聴禁止となっていたため、大正高小事件裁判への批判となるので、社会問題講演会という名称で開くことになっていた(一二月二一日『大阪時事新報』)。またこの演説会の記事も各新聞には登場していない。治安警察法第九条・新聞紙法第二一条による禁止のためである。


 ただ一つ『奈良新聞』一二月二一日付の紙面に、次のような予告記事が発見出来た。


 「水平社演説会 県水平社委員部主催の下に、今廿一日午後五時より南葛城郡御所町寿座に於て、水平社運動に対する批判演説会開催の筈にて、当日東京弁護士布施辰治、早稲田大学佐野学両人及び賀川豊彦等出演する筈」


 この演説会で賀川が熱弁をふるったことは本号所載の木村京太郎の証言によってもあきらかである。


 奈良県水平社の幹部によって、賀川が講演に招かれたのはどうしてなのだろうか。その背後には深い理由が存在する。それは徹底的糾弾闘争をのりこえる方向とかかわっていたのである。


                 三

 
一二月二一日の奈良県水平社主催講演会の二日前、一九日夜、同じく県水平社主催の講演会が開かれた。南葛城郡掖上村柏原北方の西光寺本堂が会場で、聴衆は二五〇人とも五〇〇人ともいうが、満員の盛況であった。この時に日本農民組合(日農)から杉山元治郎、行政長蔵、仁科雄一、安藤国松らの本部員がやってきて講演した。この時の日農本部書記仁科雄一の講演は要旨次のようであった。


 「弱者同志に於ては、決してかくの如き差別的の特称なし。故に我等労働者と部落民とは、一致団結して向上発展の方法を講ずべき必要ありと信ず。この意味に於て水平社と労働組合と相提携せし所以を力説(下略)」(拙著、三〇四頁参照。原文はカナカナ)。労働組合とはおかしないい方だが、当時は農民も労働者だと思われていたのである。


 西光寺は西光万吉の生まれた寺である。その寺の本堂をびっしりと埋めた聴衆とは、どのような人々であったのだろうか。多くは部落の農民であったろうが、近隣の村の一般農民も参加していたにちがいない。


 この講演会のあった翌一二月二〇日、掖上村柏原の小作人二〇〇余人が日農支部を作り、地主にたいし小作料永久三割減を要求したという(同二三日『大阪時事』)。


 これらの事実は、賀川豊彦と水平運動とのあたらしい関係を表現したものである。当時賀川は日農本部理事、杉山は同組合長、本部長の行政らも賀川の影響下にあった人々である。そして賀川、杉山らは兵庫、大阪、岡山などの小作争議の指導に当っていたのである。


 そうすると一二月一九日の西光寺での講演会、同二一日の寿座での講演会は内容的なつながりをもっていると見てよい。それは水平社と農民組合との連帯を発展させるためであった。ではなぜ奈良県水平社が日農との提携を求めることになったのであろうか。それは奈良県水平社の指導者である西光万吉らの着眼に由来している。


 水平社を生んだ奈良県では、一九二二年五月の奈良県水平社結成、同月一五日の大正高小事件の後、各地に水平運動がひろがり、徹底的糾弾闘争が展開された。同年中の全国での糾弾件数は六九件で、このうち六一%に当る四二件が奈良県で起っていた。その内訳は学校生徒の失言によるもの二五件、一般人の失言によるもの二七件となっている。徹底的差別糾弾のホコ先は、おくれた意識をもつ民衆に向けられたのである。


 そしてこれを利用して、一般町村の有力者を中心に、水平社と対抗する動きが強まり、官憲の側も過激な言動をきびしく処断する方法をとっていた。こうした事態にたいし西光、阪本、駒井らはどういう態度をとったのだろう。


 これをもっともよく表現しているのが、右の三人が一九二二年末に印刷・配布したというビラの文章であった。


 「『人間は尊敬すべきものだ』と云ってゐる吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である(中略)。諸君は他人を不合理に差別してはならぬ、軽蔑し侮辱してはならぬ。吾等はすべて人間がすべての人間を尊敬する『よき日』を迎へる為めにこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力をたのんで軽挙妄動する野次馬的行為には吾等は断じてくみするものではない(下略)」。


 このビラについて、私は次のようにこれを評価している。


 「これは、水平社宣言の思想を現実に生かした堂々の声明であり、後の水平社の方向を暗示するものであった。しかも柏原の三人組がこれを提起している点に、単なる糾弾から一歩を踏出して行く萌芽を認めなければならない」(拙著、二七三頁)


 奈良県水平社の指導者、とりわけ西光万吉は、徹底的糾弾のホコ先が個人に向けられ、ことに貧しい民衆が謝罪状を出さなければならない矛盾に気がついていたのである。


 西光らは、農民、ことに小作農民の生活と意識の変革なしに、差別観念の克服はありえないことに着目したのであった。


 日農機関誌『土地と自由』の本部日誌抄を見てゆくと、一九二二年の九月一八日に三浦大我が本部を訪れている。こえて一二月三日に「水平社同人来訪、農民運動に付き協議」したとある。この頃が西光らの新しい方向への出発の時期であった。そうした方向の第一着手が西光寺の講演会であり、寿座での賀川豊彦、佐野学らの講演会であった。


 以上のように見てくると、著者も引用している次の杉山元治郎の思い出の誤りがわかる。


 「日本農民組合創立の打合せを神戸新川の賀川氏宅でしていたころ、全国水平社創立の相談を同じく賀川の宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万吉、阪本清一郎、米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔をあわせたことがある」(『土地と自由のために―杉山元治郎伝』二〇五頁)。


 これは杉山の記憶ちがいで時期がちがう。全国水平社は一九二二年三月、日農は同年四月の創立で時期は重なっているが、目下のところ判明しているところでは、西光らが賀川のところへ水平社創立の相談に行ったという事実はない。


 そうすると、西光万吉らと日農の人々が賀川宅で顔を合わせたというのは、何時のことだろうか。私はこの話は一九二二年末のことで、農民組合と提携しようとする奈良県水平社の人々の訪問の時ではなかろうかと思っている。


 水平運動側のこうした模索と新しい方向への前進が、日農との提携、そして賀川豊彦の再評価となるといってよいであろう。大切なことは水平社の創立者たちが、徹底的糾弾にたいしてきちんとした批判的意見をもつに至り、これを克服する方向を日農との提携に求めたということである。


                 四


 そうすると最後に問題となるのは、どうして水平社と賀川のこうした関係がさらに強くならなかったのかという点である。


 当時の賀川が日農の実質的な中心となっていたことから、日農「本部日誌抄」(『土地と自由』所載)を見ると、賀川の動きは大筋において変化がなく、杉山、仁科、行政らとともに各地で講演をしている。


    一九二三(大正二I)年二月二日 播州国包で講演
               四月五日 岡山劇場で社会講演
               九月二一日 杉山とともに片鋒
                    など三か所で講演
                  (『土地と自由』各号による)


 また杉山、仁科らは各地の水平社講演会に出演していた。そうすると大震災の救援で賀川が上京するまでは、水平社と賀川の関係は変化がなかったといえるのであろうか。


 鳥飼氏はこの点について、『石の枕を立てて』の記述から、一九二三(大正一二)年三月の本国争闘事件(下永事件)がその転機であり、この事件から「水平社運動と直接的な離別ともなっていくのです」(本書一二八頁)と述べている。


 「アナーキストの群はこの運動に便乗した。それを見た新見は不祥な事件が起らなければよいと思ってゐた矢先、大和の水平社騒動が爆発し、数千の国粋会員と、数千の水平社員が数日に亘って戦争騒ぎを惹起した。そして、大正八年始めて神戸の新見の家を訪問してくれたT君がその首魁者として懲役四年の宣告を受けた。T君は背の高い、貴族的な容姿をもつた立派な人物であつたが、憎悪の福音から逃れ切れないで、行くところまで行ってしまった((『石の枕を立てて』全集19、一九八二年、第一版第三刷、二二五頁)


 水国争闘事件については拙著などを参照してほしいが、右の書き方はいかにフィクションであってもおかしな文章である。これでは、この小稿で述べた西光万吉らの模索をなんら理解していないことになってしまう。なるほど水国争闘事件は一般と部落との対立という外観をとり、双方約二千名の力による抗争となったものである。


 しかし西光、阪本、駒井らは、軽挙をいさめることにいっかんして努力した。それは彼らの立場からすれば当然であり、賀川にそれを理解する力がなかったとも思われない。賀川はどうして西光らの痛切な努力を理解出来なかったのであろうか。

 
 私には今のところこの点を正確に判断する材料がないけれども、『石の枕を立てて』を虚心に読めば、賀川のいう「憎悪の福音」は、なにも水平社の糾弾闘争についていっているのではなく、「左翼分子」の「暴力に訴へ、脅迫的行為に出る」闘争至上主義を批判していることは明白である。


 一九三九年に一〇年以上も前の思い出を書いた時に(『石の枕を立てて』)、労働運動・農民運動・水平運動の「左翼化」は、協同組合主義をとる賀川の立場からは「アナーキズム」の拡大と見えたのである(この点について工藤英一氏もそのように発言されている。『部落問題研究』第75輯)。


 そのように読めば、賀川の水平運動との関係が弱まったのも、労働・農民運動の場合と同じであり、社会運動のなかに左派の思想が浸透し、賀川ら穏健派を排斥する過程が進行してゆくからであった。そうすると、著者も述べている、水国争闘事件を契機に賀川が水平社と訣別したという理解は根拠がうすくなってくる。しかしこの点については、いっそうの資料発掘が要請されるであろう。

 
 以上、鳥飼氏の新著に刺戟されて、私が水平運動史研究を続けてきた立場から、若干の論点についてふれてみた。私にとっては、この書物はさまざまのことを考えさせてくれた本であり、著者にお礼を申上げたい。


 当初の予定では、『貧民心理の研究』についてもふれるつもりであったが、紙数の関係上割愛せざるを得なかった。ただ一言だけ述べておけば、『貧民心理の研究』の評価も、差別文書かどうかといった次元の論難は、いいかげんにやめてほしいと思う。今日は、賀川の誤りをもふくめて、この書物の客観的な価値を確定すべき時期である。そして、その仕事は、賀川の片言隻句をあげつらうのではなく、日本の都市問題、貧民問題を歴史的にときあかす努力とともになさるべきものであろう。


 そして最後に一言する。日本基督教団の『賀川豊彦と現代教会』問題に関する討議資料、同第2部などを読んで感ずることは、これらの資料の作成者たちは、まともに水平運動史をみすがら学んだことかあるのだろうか、という疑問である。事実にもとづかずに人を批難することは俗人にも許されないことである。


 あくまでも事実を重んずるこの鳥飼氏の著書は、いっそうの迫力をもって私たちに語りかけるのである。
                      
                        (立命館大学教授)