『賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌テキスト化分(7)土山牧羔「大阪民主新報」1988年8月27日・30日



賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌(7)


 「大阪民主新報」(1988年8月27日・30日)


      テキスト化分






          賀川豊彦と現代』を読んで


              土山牧羔


               (上)


      キリスト教社会主義者として、無私の愛に生きぬく


         欧米でも高い評価数々の実績を残す


 「賀川豊彦と現代」(鳥飼慶陽著)の書を一読し、現在忘れかかった賀川の名を再び思い出させたのは、彼の批判者たちであるが、彼の持つ現代的意義、「賀川の生き方」を再評価する機会を与えていると思いました。彼が生きた道の全体像を、一べつしてみましょう。


 今日では賀川豊彦の名を知る人は少ないのですが、戦前、戦後にかけての世界的に著名な指導的キリスト教社会運動家でした。また宗教家、思想家、著述家としても多くの功績を残しました。一九六〇年に亡くなる前に、彼の名は日本でよりも欧米において人気が高く、世界三大聖人として、賀川とガンジーアルバート・シュワイツァーが挙げられました。今年は彼の生誕百年を迎えます。 

 
 賀川は、一八八八年に、徳島の実業家の次男として生まれ、五歳で両親が死去し孤児となり、妾の子としてさげすまれつつ成長しました。十六歳の中学生の時、聖書にふれてキリスト教に入信し洗礼を受け、卒業後に牧師になる決心をして明治学院神学予科に入学、さらに神戸神学校へ進みました。在学中に、不治の病とされた結核にかかり、残った生命を貧民に捧げようと決意し、神戸市葺合新川の貧民窟の中に入り、極貧の人びとの友となって一緒に生活し、伝道と隣保事業を始めました。それは二十一歳の時でした。


 二十五歳で、生涯にわたって苦労を共にわかつ同労者として、女工員の芝ハルと結婚します。翌年、単身で米国へ留学し、プリンストン神学大学院へ入学し、同時にプリンストン大学で生物科学を研究します。三年後に卒業して帰国し、再び貧民窟へ戻り、伝道と無料診療や夜学など社会事業活動を継続します。


 その後、関西の労働運動の指導者となり、農民組合の結成や、生活協同組合の設立をなし、水平社結成に参画し、関東大震災に際して救援活勤のため東京へ移住し、また大阪の労働者街にセツルメントを創設します。さらに、保養農園、救療、病院、司法保護、隣保、保育所、幼稚園など、多くの社会福祉事業の経営に理事長として当たります。


 賀川は、キリスト教社会主義者であり、非暴力によって、抑圧や搾取や貧困などの社会の諸悪から人間を解放し、愛と正義に基づいた社会を確立しようと努力しました。


 彼は、愛の人であり、「愛は私のすべてである」「愛の奴隷たれ」と言い、自分のためには何もせず、すべてを他の人のためになし、惜しみなく与える無私の愛に生きました。


 賀川は、科学を尊重しました。科学と愛の神を関連させ、「宇宙目的論」の思想を展開し、宇宙と人間に内在する悪から完成した愛の世界への進化を考えていました。


 賀川は、世界を彼の家とした国際主義者、平和主義者であり、海外にたびたび講演旅行におもむき、世界の人びとに敬愛され、彼らの心の中に愛と平和の火を燃やしました。


 日米開戦前の一九四一年の春、賀川を団長とした「キリスト教平和使節國が米国へ派遣され、米国キリスト教会の指導者たちと数日間の協議をしました。それで米側の代表たちは、開戦直前まで、日米間の諸問題を平和に解決すべく、米政府と交渉を続けていました。その時、賀川は東京で、「早和を祈る集い」を毎日連続で催していました。


 開戦となり、一九四三年に、賀川は、反戦平和主義、社会主義の思想のために、警察によって検挙されました。しかし、終戦後には再び、数かずの国際的舞台で活躍しました。


 賀川の一生を回顧するとき、私たちだれもが模倣できないスケールの偉大さを見出しますし、私たちそれぞれの立場、また時代的状況の違いをも認めねばならないでしょう。しかし、今、私たちにとって大切なのは、彼が成就した大事業ではなくて、彼が弱き隣人の向上のために、彼らとともに生きた生き方、また歩んだ道ではないでしょうか。


      (つちやま・ぼっこう元大阪キリスト教短期大学学長)(つづく)



            (下)


          「差別者・賀川」への的確な反論


       「新しい全体像」示す歴史的変化を客観的に確認


 鳥飼慶陽著「賀川豊彦と現代」は、賀川と部落問題を分析し、客観的な歴史的検証のもとに、賀川の遺業から学ぶべきものと批判的に継承すべき点を明らかにし、「部落問題の真の解決――国民融合の基礎」を積極的に示す目的で出版されました。


 鳥飼氏は、賀川の若い日の部落についての「考え方」(認識)と、貧しく弱き無産者の味方となり、救済と解放に尽くした開拓的な「生き方」(実践)を混同させないで、これらの区別と関連を明確にし、その歴史的変化を客観的に確認することに努めています。


 今年は賀川豊彦の生誕百年の年に当たり、広範囲の人びとによる記念事業がおこなわれています。その反面で、一部の過激派などのキリスト者は「部落差別者・賀川」と一方的に非難し、彼の貢献の全面的抹殺を企てています。


 その非難は、主として彼の学術著書「貧民心理の研究」の内の「差別表現」と指摘された文章に向けられています。七十三年前の一九一五年(大正四)に、二十七歳の時の出版で、物質的貧困と精神発達の関係についての世界最初の独創的研究でした。


 鳥飼氏は、賀川が当時一般に常識とされていた部落の「人種起源説」を採ったことを、差別的偏見と独断として批判しつつも、後に水平社運動の創立者たちとの実際的な協力(一九一九〜二三)によって、賀川の認識に変化が起こったことを認めています。


 「日本キリスト教団」は「賀川問題資料」で、賀川が「徹底的糾弾を基調とした……糾弾的な戦いを『憎悪の福音』と呼び、水平運動を批判した」と非難します。鳥飼氏は、それは一九二三年(大正十二)に水平社と国粋会が双方竹槍で日本刀などで数百人が激突し多数の負傷者が出た『水・国争闘事件』とのことで、そのような糾弾も「解放に目覚める共同の学習の場」(教団・資料)なのかと反論します。また糾弾には、歴史的に大きな変化と前進が見られ、現代では解放運動の内外で検討が なされていると指摘しています。


 過激な糾弾活動は、心の中に深刻な嫌悪感の傷を残しました。教育的な対話による健全な民主的人権啓発活動で、双方の心の中の壁を無くし、差別意誠を是正すべきです。


 解放運動には多様性があります。一つの立場だけを絶対化、権力化し、思想・言論・出版の自由を抑圧すれば、民主主義は否定され、人権も解放も無くなる恐れがあります。


 賀川の著書が提起した貧困と知力の問題は、現代の新しい心理学の研究で、解決策が発見されました。その成果に基づいて同和保育を充実し、幼児期からの知的発達と就学後の学力の向上に努め、就職の機会の改善を計ることが、今日の最重要な課題なのです。


 賀川の過ぎた歴史的文書の表現と、変化し去った認識を、情緒的に自分の「差別性」と告白する偽善を捨てて、今日の部落問題の理解と解決への課題を追求するために、愛と和解と友和に尽力した賀川の生き方の「新しい全体像」に学ぶべきではないでしょうか。


          (つちやま・ぼっこう元大阪キリスト教短期大学学長)