『賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌テキスト化分(6)那須靖雄『部落問題(調査と研究)』1988年12月)


賀川豊彦と現代』紹介批評紙誌(6)


 岡山部落問題調査研究所『部落問題(調査と研究)』
    第77号(1988年12月)


      テキスト化分


         賀川豊彦と現代」を読んで


                     那  須   靖  雄

 
 鳥飼慶陽さんの頭書の著書を読み、心から感激しました。神戸茸合新川の話でしょうか、貰子殺しの常習者の老婆が何かの容疑で警察に検挙され、幸いに命の助った赤ん坊を育てる賀川さんの記事を「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ三・一七)等の聖句を思い出しながら読みました。


 私は賀川さんと直接の関係はありません。私か東京物理学校で数学を学んでいた頃、多分昭和十一年秋と思いますが、東京の教会で、賀川さんの講演を聞きました。これが唯一の賀川さんに接した機会でありました。賀川さんは「私は労働運動や農民連をやるけれども、マルクス主義ではありません」と言われました。この言葉は私の記憶にずっと残りました。


 賀川さんの「貧民心理の研究」という著書の自序として、鳥飼さんはつぎのように引用して居られます。「唯物歴史観が、萬象の精神生活を丸でパンの問題で解決出来ると思ったのぱ二、三十年前からの事であるが、私は、貧民窟の哀史を一目一目と播くと共に何んだかランブレヒトマルクスの所説が『ほんとぢゃないかしら』と釣込まれ相なことがある」という文章と、最近来来社出版の[拝啓土井たか子殿]という亀田得治さん著書を比較するようになりました。この書物の中に、賀川さんとの出会いの記事がありますが、亀田さんは「私の愛読書は聖書である。聖書と共産党宣言はいつでも私の手の届くところにある」と述べて居られます。若いときから、これは変らないと述べて居られるので、私は驚かされました。二点いについて、賀川さん、亀田さん御両人のお考えを私なりに解釈して見たいと思います。


 聖書に「もはやユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つの体である」(ガラテヤ・四・二八)とあります。これは信仰について、使徒パウロが述べたもので、一般社会の階級制度を否定したものではありません。ここではアウグスチヌスの「神の国」(岩波全書、服部英次郎訳)及び、「キリスト教の源流」(岩波、石原謙)を参考しますと、つぎのように述べることができます。


 アウグスチヌスはローマ史を嘲笑する立場ではなく、神の審きの中にあると見て、その支配を神の国の世界政治の予徴と見ました。従って、コンスタンチヌス、テオドシュウス両皇帝の信仰と徳に祝福を送り、神の国に近づく原動力と見ました。カトリック神学者として、神の統治する国を地上に実現することを阻み抵抗するサタン的行為を排除し、克服する人類の救極史として、ローマ史、及びその前後史を見ました。人間は道徳的には中性で、善悪何れでも選択できるが、一つの国家が低次の目的を選択し、その目的に止まっている限り、完全な悪とはいい難いが、真の神の国を実現することは出来ない。ここに彼は最後の裁きを信じました。この思想は古代国家の階級制度の上で考えたもので、今日の民主主義、自由、平等といった思想がこの中にあるのではありません。


 ここで思い出されるのがデンマークの宗教思想家キールケゴール(一八一三〜五五)であります。当時デンマークの社会的、政治的状況では、絶対王制が立憲君主割に変った時代(一八四九)であり、自由主義、民主主義といった要求が高揚していました。彼はこうした運動を人間を平均化させ、単独者たる個の実存を見失うものとしました。直面する社会的矛盾や危機を宗教的自覚の上に個の実存を発見することを主張しました。彼は実存哲学の祖とされました。彼の自由主義、民主主義といった思想をどう社会に位置づけるかは問題があったとしても、聖書を読み違えていたとは思えません。彼は牧師であったのであります。


 こうした考え方はキリスト教だけではありません。人間の宗教的平等についていえば、原始経典、大乗経典と多くの経典の中で、仏教の主張となっています。例えば、浄土教の三部教の中の無量寿経(康僧鎧訳)によりますと、極楽浄土というのがあります。阿弥陀如来が法臓菩薩と称し、囚位の菩薩であったとき、四十八箇條の願を立てて修業し、その功徳により願の成就と、仏国土である極楽浄土が生れたのであります。


 この中に「かの仏の国土は清浄安穏にして微妙快楽なり、無為泥洹の道に次(ちか)し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は知慧高明にして、神通に洞達せり。みな同じ一類にして形に異状なし。ただ余方によるがゆえに、天・人の名あり」とあります。


 ここで一類というのは人の平等でありますが、ここでは住民はすべて男になっています。これは当時、女性は男性に劣るという思想があったので、四十八願の一つにより、女性は男性に生まれ変ることが出来るとしたことによります。極楽浄土の住人は豪華な衣・食・住があたえられ、地上の労働から解放されるとされています。


 曇鸞(四七六〜五四二)という人は無量寿経優婆提舎願半偈という世親(三二〇〜八〇)の詩の解説書である「浄土論註」という著書を残していますが、この中で、一定の功徳を積んだ人達は園林遊戯地という生活の場を得ることになります。これが無量寿経にいう極楽世界であると思います。ここで、住民は一半袖処の身分となり、菩薩としての最高の地位に達します。自分の利益と他の利益は混然一体となり、衆生済度のため、極楽浄土の門から旅立つとされています。


 ここで申し上げたいことは阿弥陀如来の権威に基づく仏国土、キリストの権威に基づく神の国は人間の示福の場所とされています。古い階級制度の上に考えたもので、仏教でも、日蓮(一二二二〜八二)、か立正安国論に述べているように、王道が仏道に反するとき、災難が起るということがいわれています。そこで金光明経、大集経、仁王経など多くの経典を挙げています。また龍樹(一五〇〜二五○頃)か南インドのシャータヴアーハナ王朝の一王に送ったとされる宝行王正論は有名であります。聖書とマルクス主義は単なる選択の問題ではないと思います。


 鳥飼さんは賀川さんの業績を発展的に考えられるといって居られます。それは素晴しいことで、封建的社会制度を多分に残した後進的日本社会の中で、労働運動、農民運動、部落解放運動に手がけられた賀川さんの業績は立派であると思います。しかし、さらに前進するためには賀川さんを踏襲するだけでは不十分だと思います。


           (岡山部落問題調査研究会会長、岡山大学名誉教授)