「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第22回)(未テキスト化分)


賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第22回・未テキスト化分


              あとがき


 「はしがき」でもふれましたように、21歳の賀川豊彦が神戸の「葺合新川」で新しい生活を開始してから、早くも100年を迎えようとしています。2009年12月24日が「賀川豊彦献身の日」に当たることから、現在「賀川豊彦献身100年記念事業神戸プロジェクト」という新企画が構想されつつあり、近くその全容が公表されるようにお聞きしています。


 今から18年前の「賀川豊彦生誕百年記念」のときと違って、今回は「神戸プロジェクト」とうたわれるように、神戸を主たる発信基地にして、幅広いネットワークを築く努力が始められているようです。


 賀川豊彦が生涯をつらぬいて開拓した世界は、宗教・政治・経済・社会・教育・福祉・医療・文学等々、わたしたちの生活のすべての領域にわたるものでした。


 そしていつも、ひとびとの貧困や病気、苦悩と絶望のなかで生きていく者すべてを暖かく支え、励まし、力づける「大きな愛といのち」が、たえず働いているということを、大胆に告げ知らせました。


 すべてのひとと共にある、この「大きな愛といのち」に、賀川豊彦自身も養われながら、『神と歩む一日―日々の黙想』を、いちばんの喜びとして歩みました。


 全宇宙・全世界で働いている「再生・修復・創造」の力を讃えつつ、その力を存分に身に受けて、情熱的な冒険的人生を生きた方が、賀川豊彦でした。


         「もっと深くイエスを知りたい」


 賀川豊彦は、1915(大正4)年に『日曜学校教授法』の翻訳を行ってのち、1920(大正9)年に自ら『イエス伝の教え方』を日曜世界社から出版しています。これは、雑誌『基督教世界』に連載されたもので、翌年の『イエスの宗教と其の真理』という広く読みつがれた作品につづく注目すべき賀川のイエス理解が溢れています。賀川はこの「序」で、こう書きました。


 「私等はもう少し深くイエスを知りたいのです。・・もっと深くイエスを知りたい。・・私はイエス・メソードの主張者になります。イエスのやうに明るい、イエスのやうに愛の深い人が百人産まれたとしても世界がひっくり返ります。・・1920年2月 著者 神戸貧民窟にて」


 そして「宗教経験の極致」(この7字に太い傍点を付して)という小見出しの箇所には、つぎのように記しています。


 「神がある以上、地球の上と交渉のしない筈はない。そして神がイエスとして経験した生活は、また神が、我々として経験する生活であらねばならぬ。我等は勝手に生れ出たものではない。神の意思で生れ出たものである。我等が神に繋がる以上神の事業の一部分を完成すると云ふ自覚に這入ることは、宗教的悦楽の奥義であって、イエスが我等に與へた至高の特権である。」(37頁)


 一般に「賀川には神学がない」「賀川は哲学が嫌いであった」という風評を耳にしてきましたが、実際の賀川はどうだったのでしょうか。


 確かに作品のなかには、当時流通していた「神学」や「哲学」を、激しいことばで忌避する場面もありますが、逆に、賀川の場合、沢山の曖昧さや独断が残されているとはいえ、その生涯を貫いて、真の神学的・哲学的探求を、自身のすべての生活の基礎にして、歩みつづけたのではないかと、賀川の作品を読むたびに知らされます。


 それは、彼の詩作品や多くの随筆、そして小説や講演録などにも、「賀川豊彦の哲学(神学)思想」が、自分の生活経験をふまえて、独自な内容で表現されています。だからこそ、賀川豊彦の多くの作品は、すべてのひとの心に届くものとなり、分かりやすく、ユーモアがあふれるものになっているのでしょう。


 それにひきかえ、わたしの方は、比べることが間違っていますが、御覧のとおりの稚拙さで、神学的でも哲学的でもない「粗末なノート」に過ぎません。


 これまで、日々の仕事に明け暮れるなかで、「賀川豊彦と部落問題」に関連した著作としては、小さな作品ふたつ(『賀川豊彦と現代』『賀川豊彦再発見』)を刊行し、その解明にむけて努力いたしました。


 一昨年(2005年)3月末をもって、長くお世話になった研究機関の裏方の仕事から解放され、いくらか時間的なゆとりができたのを幸いに、最近の作品を中心に、本書のかたちに仕上げてみることにいたしました。


 しかし、今回のものは書き下ろしと違い、研究論文や講演草稿などを集めたもので、内容が重複する箇所も多く、「賀川豊彦の贈りもの」と名づけながら、個人的なことが出すぎてしまっているように思います。


 もちろん、今回の場合は「わたしの賀川豊彦」を物語ることを抜かしては、この作業の面白みは半減してしまうようにも思えて、重複するところも省略しないで、できるだけそのままのかたちでお目にかけることにしました。そして、少しでも読みやすくするために、全編にわたって工夫を加えてみました。


 見方によればこの作業は、青春時代から現在まで、「没後の賀川豊彦」と共に歩むことができた「生きた証し」のドキュメントであったのかもしれません。万一そのようにも読み取っていただけるなら、それもありがたく嬉しいことです。


          本書の第一読者による重要な評言


 ところで、全編ここまで草稿を書き終えたところで、本書でも幾たびも触れたわたしの大切な先輩・延原時行先生に、ご迷惑も顧みず、草稿すべてをメール送信いたしました。先生はご多忙のなか、その日のうちに読み通していただいた上に、御親切にもつぎのような返信メールを送ってくださいました。


 本書の第一読者ということになります。


 「拝復
 全部読ませていただきました。いのち輝いて、という主題は、もっと磨けると思います。例えば、明石海人を用いる。深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。滝沢『朝のことば』33頁。
  

 賀川さんの新川入りには、そのような切羽詰った動機があったのではないでしょうか。賀川文学の自光性とでも申せましょうか。この人の、伝統や系列のない独自性は、彼の実存の切羽詰った深海性ではないですか。そこからやけっぱっちに光り出した。その光り方が、被差別者のともを触発した。その光り方はまた、知的欲求を伴ったので、あのような分析的著作に向ったりした。しかし、分析的仕事そのものが狙いではなく、そのことを通じて彼自身が光りたかったのではないですか。
  

 賀川理解には、相互主体的自光性とでも言うべきものがなくてはならないのでしょう。そうでないと、被差別者は唯観察されている、と勘違いして怒り出す。実際は、賀川は、彼自身が自光体であって、被差別者にも、『君、君も光り給え』と呼びかけたのではなかったのですか。そしてその原型をイエスに見出した。自光体原型としてのイエス、とでも申しましょうか。それが彼の『イエスの宗教』の把握だったのでしょう。


 自光体賀川を指摘しないと、牧歌的にながれやしないでしょうか。貴兄の地震体験も、自光のぎりぎりだったでしょう?(以下略)」


 延原先生は昨年9月、『対話論神学の地平―私の巡礼のなかから』(春風社、2006年)を上梓され、いま読書界でひろく話題を呼んでいるようですが、先の神戸自立学校のクリスマス会でも「巡礼四段階の意義と基督心経」と題したお話を、一同親しくお聴きしたばかりです。


 右の簡潔な評言は、まことに適切にして見事です。仕上げた積りの草稿を、さらに性根を入れて磨いて見ろ、という激励のことばです。


 つまり、滝沢克己著『朝のことば』(創言社、1992年)にあげられた明石海人の歌集『白猫』序文の有名な言葉、「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」という、あの明石海人を用いて、「彼の実存の切羽詰った深海性」を描きあげてはどうか、そして「自光体である賀川」が「君、君も光り給え」と親しく呼びかけることのできる「相互主体的自光性」の原型は、「自光体の原型としてのイエス」であり、彼の「イエスの宗教」把握であったことを、もっと闡明にしてみてはどうか、というものです。


 何だか舞台裏の話になりますが、先生のこの励ましをうけ、もういちどじっくりと時間をかけて、草稿全体を練り直してみようと考えました。それほどに、先生のこの御評言は適切で、わたしには十分に傾注すべき、魅力的で納得のいくコメントでした。


 しかし、いまはこれを断念し、これからのわたし自身の研鑽の大切な糧にして、仕上げた草稿はそのままにして刊行することにいたしました。


 むしろ、先生の御了解のもとに、右の御評言そのままを、本書で公開させていただき、読者の皆さんと共に、「いのち輝いて」という主題の磨きを、今後も継続していきたいと考えました。


 そして延原先生ご自身も、現在すでに原稿も完成して出版元で検討中の『21世紀の新風を求めて―危機からの神学的省察』という著作があり、そのなかに「百合の花の美による救い―賀川豊彦の回心に学ぶ」という一章が入りますが、今回の御評言の内容なども盛り込んだ、新たな「賀川豊彦論」を期待するのも楽しみかと存じます。


 それぞれの「初出」については、当該箇所に記しておきました。関係機関並びに関係者の方々には、発表の機会を与えていただいた上に、本書への秀才をお許しいただき、この場をお借りして心より感謝を申し上げます。そして本書表紙の写真や裏表紙の賀川自筆スケッチをはじめ、本文中にも、沢山の引用もさせていただきました。末尾ながら、関係者の方々に、あらためて感謝を申し上げます。


 そして、前著に引き続いてこのたびも、創言社の社主・村上一朗氏と坂口博氏には、行き届いた本づくりに多大のお骨折りをいただきました。心からの御礼を申し上げます。


  2007年2月


                         鳥飼慶陽


奥付

鳥飼慶陽(とりがい・けいよう)
一九四〇年鳥取県生。一九六四年同志社大学大学院神学研究科卒。現在日本基督教団番町出合いの家牧師。神戸市外国語大学甲南女子大学非常勤講師。
著書『部落解放の基調』(創言社、一九八五年)『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所、一九八八年)『「対話の時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所、一九九七年)(以上絶版)『賀川豊彦再発見』(創言社、二〇〇二年)ほか。
住所 神戸市長田区一番町三丁目一番地三―一一一九