「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第20回)(未テキスト化分)



賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第20回・未テキスト化分


      第五章 いのち輝いてー神戸からの報告


   (前回の続き)


         第四節 阪神淡路大震災から10年


 ところで時間も少なくなりましたが、丁度10年前に起きたあの「阪神淡路大震災」の経験をお話してみたいと思います。


              大震災の恐怖


 皆さまには、あのときほんとうに多くのお助けをいただきました。あらためて、御礼を申し上げたいと思います。被災した地域には、ご親戚や知人・友人の方もおられたと思いますが、あの大震災は、直接被災したものだけでなく、助けていただいた皆さんも、大きな経験をすることになりました。


 やはり「1995(平成7)年1月17日」というのは「特別の日」ですね。


 当日、5時46分、マグニチュート7・3の大地震でした。といいましても、そういうことは後になって分かったことです。夜がまだ明けない暗闇でした。深い眠りのなかでした。


 14階建ての11階に住んでいましたが、あの大きなゆれでビルそのものが倒壊して「もうだめだ」と思いました。実際、家もまちも、一瞬にして壊されてしまいました。あの恐怖は、どんな言葉をもってしても説明できませんが、ほんとうに恐ろしいことでした。


 「もうだめだ」と覚悟したわたしたちは、なぜか生きていました。生きていてほしかった、大切な方々が、なぜかお亡くなりになりました。


 死者の方は最終的に6433人、家屋の全壊186000世帯と記録されています。わたしたちの新しい高層住宅までも全壊してしまいました。


 「あの日」以後しばらくは涙も出ませんでしたが、あの震災体験以後、とても涙もろくなっています。


 わたしたちの住宅のすぐ隣は、神戸市立の御蔵小学校です。その横が、映画「寅さん」の最終巻のロケ地となり、馴染みの場所となったあの「御蔵菅原商店街」です。小学校は延焼を免れましたが、旧い商店街を含む御蔵菅原地域は、広い範囲すべて焼き尽くされました。


 震災当日の夜は、冴え渡った満月でした。強い余震におびえながら、壊れた廃材を持ち寄り、小学校の校庭で焚き火を囲んで、一睡もしないで夜明かしをしました。テレビの中継車が何台もきて、ヘリコプターまでもが頭上をけたたましく飛び交い、「どうもこのあたりが、地震の中心なのかな」などとつぶやきながら、右往左往しておりました。


 翌日の夜も、そしてその次の夜も「避難所」は満杯で、横になる場所もなく、やむなくわたしたちは、小学校のグランドの片隅で「野宿」をして、冷たい夜を明かしました。
 ここで、短く「ビデオ」を見ます。「御蔵菅原地域」を映し出したビデオです。(延焼する恐ろしい映像)


            絵本『いのちが震えた』


 資料に、絵本『いのちが震えた』の付録の一部をコピーしてもらいました。


 兵庫県の姫路在住の版画家・岩田健三郎さんの作品です。(注1) この方は、テレビやラジオでもお馴染みの方ですが、現在「朝日新聞」の夕刊一面に、毎週カラーの版画を連載中ですね。


 その岩田さんが、あの地震の後、わざわざ姫路から避難先のわたしたちを見舞いにこられ、コーヒーカップ一式と被災したまちを描いたスケッチをいただきました。


 そのとき、仕事場の倉庫に避難していましたが、やっと水が出始めたときで、温かい珈琲は格別でした。そしていただいた岩田さんのスケッチはまた、ただのスケッチではなく、メチャメチャに壊れてしまった須磨のまちを、独特のタッチで描き、味のある播州弁の手書きの文章を加えた、見事なスケッチでした。


 岩田さんの人柄がそのまま絵になったようなこの贈りものは、わたしたちの心を癒やしてくれました。これを何度も何度も読み返しました。そしてわたしたちは、これをひとつの作品に仕上げていただいて、助けていただいた方々への御礼にすることを考えました。
 そのあつかましい願いを快く受け入れていただき、震災から100日目に、絵本『いのちが震えた』という立派な作品を仕上げて下さいました。


 愛猫「ぴこ」を大きく表紙にしていただいています! 本文のほとんどの頁に「ぴこ」が出てきます。確かに「いのちが震えた」のは、人間だけではありませんでした。街も、大地も、揺れ動き、動物たちも、わたしたちと同じでした。


 10年前、小学生だった子どもたちが、いま大学生になっています。
毎年「1月17日」が近づくと、「震災と人権」について考えるようにしていますが、学生のなかの何人かは「あの日のことは思い出したくない」といいます。そうした学生には、この絵本をプレゼントしてきました。


 あの震災の経験のなかで、こうした絵本や写真、短歌や詩、川柳や小説、子どもたちの作文なども数多く生み出されました。


        『「対話の時代」のはじまり』から


 前に少し触れましたが、避難先で、大地震の体験も入れた小さなブックレット『「対話の時代」のはじまりー宗教・人権・部落問題』を作りました。皆さんの前で朗読に耐えるような文章にはなっていませんが、震災の後の、より早い時期の文章ですので、その空気は少しは伝わるのではないかと思います。


 「あの1月17日早朝はまだ暗闇で、夢の中でした。14階建ての高層住宅の11階、ベッドごと大きく飛び上がり、大音響とともにビルが振り回され、幾度も幾度ももう「ダメか」とおもったあの感じは、丸2年も過ぎた今でも消えません。多くの家々は一瞬のうちに倒壊して無数のいのちを奪いましたが、なぜかわたしたちのビルは全壊になったとはいえ倒壊せず、家内ともども愛猫ピコも、共に生き延びることになりました。あの恐ろしさは恐ろしさのまま、とにかく「からだひとつ生きている」不思議を味わいました。
 過日発売されたCD「大地は、まだ揺れている」という作品があります。神戸市東灘区で被災された岡本光彰さんが震災のあと作られて、仮設住宅や復興のための集いに出向いて歌い続けておられる作品です。
ウディ・ガースリーやアメリカ民謡などのわたしたちにも親しみのあるメロディーに新しい詩を付けて歌われていたり、沖縄の女子小学生から長田区の小学校の生徒に贈られた励ましの折り鶴とともに届けられた短い手紙―つるをつなぐたんびに/家がなおってくれたら/どんなにいいだろう/つるをつなぐたんびに/人がいきかえったら/どんなにいいだろう/つるをつなぐと/ねがいがかなう/そんなつるがいたら/どんなにいいだろう」に、見事なやさしい曲を付けて歌われる「つる」という作品など、被災地の神戸から生まれたオリジナルなフォークソングです。
 歌詞など自由に紹介・引用しても良いと書かれていますので、岡本さんの好意に甘えて「大地は、まだ揺れている」から、その一部を紹介させていただきます。


 仲間同士争うのはやめよう。話し合おう、違いを分かり合おう。
    仲間同士争うのはやめよう。違いを認め合い、共に生きていこう。
    自分を超え、家族を超え、町を超え、国を超える、そんな愛もあるはず。
    自分を超え、家族を超え、町を超え、国を超える、そんな愛もあるはず。
      こころを澄ませば、大地はまだ揺れている。
      今と昔と明日を、つなぐ愛を待っている。


 こうして「大地は、まだ揺れている」なかで、わたしたちの生きる力と勇気の土台となり、お互いを繋いでいるもの、それは、原爆や水爆をもってしても決して崩れることのないものであり、すべてのものを支えて生かし続ける希望の土台です。これがあるからこそ、だれでもそこからそこへむかって生きることができ、死ぬことができるのだと、あらためて経験させられました。
親しい先輩からは、こんな「うた」も頂きました。


 「地は震へ 都崩るれど 基あり」

                             
 震災でわたしたちは一様に、ひとの(ものの)「いのち」「生と死」の経験を強いられました。まさにそれは「生き地獄」でもありました。人知れぬようにひそとタオルを取り出し、涙を拭う姿を覗き見ました。「悲しいときは、存分に悲しむが良い」という天来のこえが、わたしたちを温かく包み込んだりもしました。そして、厳しく不自由な場所にあって、これに耐え、共に乗り越えていくことのできるバネに出会いました。ここから、家庭もまちも仕事も、すべて静かに新しく動き始めるのでした。・・」(26〜29頁)


             大震災と同和地区

 もうひとつの「大震災における市街地同和地区」という資料(注2) は、トルコ・イスタンブールで開催される国連の「第2回人間居住会議」へ届けるべく認めた日本NGOフォーラムレポートの準備草稿です。


 あの大震災が、同和対策事業の実施前に襲っていれば、確実にいのちを奪われていたと思います。幸いにも、あの1995(平成7)年の時点では、どの地域も見違えるほどに、住環境の改善がすすんでいました。


 わたしたちの地域でも、震災の前にすでに「部落」という枠をはずし、「ふれあいのまちづくり協議会」をつくって、「まちづくり」をすすめていました。


 神戸市では、1971(昭和46)年、1981(昭和56)年、1991(平成3)年と10年ごとに、地域の生活実態調査を実施し、その結果を踏まえて同和対策事業が取り組まれていきました。


 1980年代になると、事業の具体的な「見直し作業」を重ね、1985(昭和60)年からは「公営住宅家賃の適正化」という、実質的に家賃を値上げする取り組みなども、住民の意向を受けて積極的に実施してきていました。


 それと同時進行のかたちで、住民自らの自立的な取り組みとして、「神戸ワーカーズコープ」「兵庫高齢者協同組合」「西区教育文化協同組合」といった、新たな自主的な活動もつぎつぎに動きだして、地道に実績をあげつつあるなかで、あの大地震は起きたのです。


 マスコミ関係の方々、なかには「ル・モンド」とかの名刺を持った外国の記者まで取材がありましたが、多くの方は、部落問題についての現状認識が、あたかも30年か40年も前の「差別と貧困に苦しむ同和地区」といった、間違ったものが目立ちました。そうした予断から、今回の大震災は、とくに「長田区の同和地区」は、よほど大きな被害をこうむったであろうと思われていたようです。


 この「国連人間居住会議」に提出するレポート要請も、「大震災における市街地同和地区」が、よほど極端な被害を受けたに違いないとする見方があったように思います。


 もちろん、わたしたちの地域でも42名の方々が亡くなり、全半壊戸数が1400戸(全世帯の58八%)にのぼりました。高層住宅が5棟、500戸ほどが全壊で、わたしたちの住棟も全壊になりました。けっして少ない被害ではありませんでした。そして被災した多くの人たちと同様に、みなばらばらになって、遠方の仮設住宅への避難生活を余儀なくされました。


 しかし、市営住宅に入居していたわたしたちは、もといた同じ場所に再建された住宅に、つぎつぎと「戻り入居」が可能でしたし、半壊の場合も、住宅の修理が行われたあと、もとのところに戻ることができたのです。


 逆に、「御蔵菅原地域」をはじめ、周辺の甚大な被害をうけたところの復旧と復興のあゆみは、わたしたちの地域に比べて、順調といえるものではありませんでした。


 あの日からすでに10年を迎えます。お蔭さまで神戸の町も新しいまちに蘇りつつあります。
 わたしたちの地域も、「ふれあいのまちづくり協議会」を中心に、「新しい課題」に挑戦しています。


 兵庫人権問題研究所の付属機関として1990年代初頭より専門家の方々が加わって「NPO神戸まちづくり」が機能してきましたが、現在では独立した法人として「NPOまちづくり神戸」を結成し、神戸市内の旧同和地域のまちづくりを中心に、地道な調査研究と「まちづくり支援」を行っています。



                


1  版画家・岩田健三郎さんは、「その日その日のなんやかや」を綴る手作りの「ヘラヘラつうしん」を発行し、地元姫路市で毎年「版画展」と「星祭りコンサート」を開いている。彼の「うたと語り」は幼稚園からお年寄りまで大好評である。自宅近くにフォークアートのミュージアム水上村・川のほとりの美術館」(館主・岩田美樹さん)があり、国内はもとより国際交流の場となっている。


2  この準備草稿は、NGOで活躍していた草地賢一牧師の依頼で、震災の翌年(1996年)5月、「日本キリスト教団番町出合いの家牧師」の個人名で提出を求められた。