「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第19回)(未テキスト化分)


賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第19回・未テキスト化分


          第五章 いのち輝いてー神戸からの報告


    (前回の続き)


     第三節 詩人・丸岡忠雄(1929〜1985)没後20年


 さて、昔の話が続いてどうかと思いますが、もうひとつの柱である10年前の大震災のお話に入る前に、ここで短いビデオを見ていただきます。

 
            永六輔さんのトーク


 これはご記憶のある方もあるでしよう。今から16年ほど前、1989年に朝日テレビの「朝までテレビ」という番組で、2度にわたって「人権と部落差別」というテーマが取り上げられました。その2度目の番組が始まる冒頭で、タレントの永六輔さんの、十分ほどの短いコメントが入りました。そのうちのほんの一部分です。


 永六輔さんがそこで、山口県光市で「部落」をうたった代表的詩人として広く知られる「丸岡忠雄」さんのことに触れられた部分があります。(その部分をビデオで映す)


 部落問題に関わることになったお陰で、多くの素敵な人々との出合いを経験いたしましたが、丸岡忠雄さんもそのひとりです。


 丸岡さんは、1929(昭和4)年生まれで、1985(昭和60)年に56歳の若さで急逝されました。


 晩年のほぼ10年近く、研究所の月刊誌にほとんど毎月、出来立ての詩を寄稿して下さいましたし、お母さんを題材にした未完となった組詩「おみね伝」は一冊の詩集に仕上げる約束をしていましたので、忽然とお亡くなりになったときは、ほんとうにことばでませんでした。


 丸岡さんの詩を、永さんがいまのビデオで朗読されましたが、この代表作である『詩集・ふるさと』と、没後に『詩集・続ふるさと』と、永さんのトークを入れた上製本『詩集:ふるさと「愛蔵版」』を、それぞれ兵庫部落問題研究所から出版させていただきました。


 永六輔さんは、丸岡忠雄さんが大好きでした。


 丸岡さんが急逝されて間もなく、永さんをお迎えして大規模な講演会がありました。そのとき永さんは講演の冒頭で、丸岡さんのことにふれようとして感極まり、話がしばし途切れて、長い沈黙がつづきました。あの、永六輔さんの涙は、いまでもわたしは忘れることができません。


 いまのビデオで、永さんもおっしゃっていましたように、「丸岡忠雄」という人は、とても優しくて厳しい、ほんとうに素敵なお方でした。ですから、俳優の小沢昭一さんや民俗学者宮本常一さんなど、幅広い親しい交友関係に恵まれておられました。


            丸岡忠雄全詩集』


 昨年(2004年)『丸岡忠雄全詩集』が、丸岡さんの地元山口県光市でまとめられ、立派な「詩碑」も完成したようです。


 今年は没後20年に当たりますので、先日は特別に、学生たちに90分の講義のなかで「丸岡忠雄の人と作品」について、思い出をまじえて語らせてもらいました。


 本日は、丸岡さんの作品を3つだけコピーいたしました。


 ひとつは、皆さんもご存知の代表作「ふるさと」です。先ほど永さんが朗読された作品です。


      “ふるさとをかくす ”ことを
      父は
      けもののような鋭さで覚えた


      ふるさとをあばかれ
      縊死した友がいた
      ふるさとを告白し
      婚約者に去られた友がいた


      吾子よ
      お前には
      胸張ってふるさとを名のらせたい
      瞳をあげ 何のためらいもなく
     “これが私のふるさとです ”と名のらせたい


 これは1965(昭和40)年の作品です。


 4年後(1969年)に、真原牧さんとの共著で『詩集・部落―五本目の指を』という詩集となります。


 表紙には、ご長男の誕生を記念して押された、生まれたばかりの吾が子の両手の手形が入り、それも濃い朱色の下地に、手形が白抜きにされ、「五本目の指を」という文字が表裏をつなぐという、強いメッセージが伝わる装丁になっていました。


 部落問題関係の文学作品のなかで、この詩集は歴史に残る大切な作品のひとつです。ここに収められた丸岡作品はすべて『詩集・ふるさと』に入りました。

 
 もうひとつは、右の作品から20年後の1985(昭和60)年、ご長男が成人を迎えたときの「吾子成人」という作品です。


       産声を聞いて思わず涙ぐんだのが
       昨日のことのように思えるのに
       今日は お前の成人式だという


       遠く離れた学生生活では
       直接目にするすべもないが
       この厳しい寒さの中
       お前は ちゃんと出席しただろうか


       かつて 首もすわらぬお前を腕に
       その重さをたしかめながら
       わたしは 「ふるさと」という詩を書いた
       「瞳をあげ 何のためらいもなく
       “これが私のふるさとです ”と名のらせたい」とうたった


       お前の進学先が京都と決まった時
       果たせなかった私の夢がかなえられたような想いがし
       仲間が世話してくれた下宿が
       「部落」だと知ったとき
       “どうってことないさ ”と
       問題にしなかったお前にホッとした


       一年近く経ったこの頃
       便りどころか電話さえめったによこさない
       親しい仲間は出来たか
       好きなガールフレンドはどうだ
       “どうてことないさ”と問題にしなかった
         「ふるさと」を話題にして
       仲間と話し合ってるか
       とうさんの詩い続けた「ふるさと」の闘いのあゆみを
       ほんとに どうってことなしに
       ガールフレンドの瞳をみつめながら
       話せているか
       二十になった お前よ!


 丸岡さんはこの年に急逝され、この作品は『続・ふるさと』に収めました。
 

 そして三つ目は、初期のもので1954(昭和29)年にできた「瞳」と題された、短く5行だけのひらがなの詩です。
 

       いのちをみつめて
       うたをこぼせ
       なみだではない
       うたをこぼすんだ
       ひとみよ


 これは「丸岡忠雄」がよくあらわれていて、いちばん好きな作品です。その思いは同じようで、完成した記念の「詩碑」(注1) にも、この作品が刻まれました。


            「丸岡塾」のなかから


 丸岡さんのところには、高校生たちや若者たちもよく集まり、「丸岡塾」と呼ばれた「部落問題研究会」が、自宅を開放して長期間にわたって開かれました。「部落」の垣根をこえた交流の場ともなって、そこから次々と結婚家庭が誕生していきました。


 そのたびごとに、丸岡さんは新しいカップルにお祝いの詩を贈られました。


 丸岡さんが急逝されたとき、ご自宅を訪ねましたが、そのとき奥様から一枚の紙切れを見せていただきました。


 そこには、お亡くなりになる前、息子のように可愛がっておられた村崎智雄君の結婚式があり、その披露宴の席で贈られた「嬉しい日に―智雄君に」と題された作品が、小さな紙切れに書き記されていました。


 結局この作品が、丸岡さんの「遺作」になり、前記『詩集・続ふるさと』に収めることができました。


              猿回しの復活


 また、永六輔さんの先ほどのビデオで触れておられた「周防の猿回し」の芸能が、丸岡さんたちのもとで「復活」していきましたが、その立役者は、皆さんも良くご存知の「村崎太郎」さんです。彼は、いまや国民的なスターのひとりですね。


 30年近く前、はじめて丸岡さんをお訪ねしたとき、丸岡さんと一緒に部落解放運動に立ち上がり、丸岡さんのよき理解者でもあった村崎義正さんも、意欲的に多方面に活躍中でした。その義正さんのご長男が「村崎太郎」さんでした。


 彼は当時高校生で、大学進学を断念して、父親や丸岡さんたちが熱心に夢見て取り組んでいた「周防の猿回し」の復活に、自ら挑戦する決意を固めたときでした。


 丸岡さんの作品には、義正さんをうたった作品も数多く、「タロウが恋をする頃までには」(1962年)をはじめ、太郎さんがそのご猿回し復活に果敢に挑戦する姿をうたった「復活」「仕込み」「輪」(いずれも1979年)などが遺されています。


 今年(2005年)、サルの「二代目次郎」が亡くなりました。太郎さんはその日、「ニュース・ステーション」の番組に出演し、「次郎」の告別式の模様なども放映されていましたが、先日の「徹子の部屋」では「三代目次郎」の襲名公演の成功の映像なども流れていましたね。



                 


1   山口県光市の「むろづみ観光ガイド」には、「御手洗湾沿いにあるみたらい公園には、郷土が生んだ詩人礒永秀雄、丸岡忠雄の詩碑、漂泊の詩人種田山頭火の句碑」があり「普賢寺には芭蕉の句碑」があって「象鼻ヶ岬には性空上人にかかわる遊女の歌碑」があると記されているが、いちど丸岡さんの詩碑とともにお訪ねしてみたい。