「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第18回)(未テキスト化分)



 賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第18回・未テキスト化分


   第五章 いのち輝いてー神戸からの報告


   (前回の続き)


           第二節 結婚と部落差別


 このドキュメンタリーが放映されたあと、その年に「同和対策特別措置法」が10年の時限立法のかたちで成立・施行されます。


 ご当地も同じだと思いますが、この法的措置をバネにして、住環境を中心とした地域の改善事業をはじめ、住民の仕事と生活、健康と福祉、そして学力と進路を確かなものにしていく同和教育の取り組みなど、総合的な諸施策が積極的に展開されていきました。


 あのころまだ、就職差別なども残されていて、国家公務員試験でも、また自治体の職員採用においても、書類選考や面接で差別的な扱いが問題となっていました。結婚差別も珍しいことではありませんでした。


           フォークの神様・岡林信康


 先ほどの「ドキュメンタリー青春」で、岡林信康さんの「うた」を聴いていただきましたが、彼は、同志社大学神学部の後輩で、学生のときに思うところあって、東京の「山谷」や地元滋賀県近江八幡被差別部落に住み込んだりして、わたしたちより早く部落問題に直に触れ、生活に深く根ざしたフォークシンガーとして、活躍しはじめていました。(注1)


 ここで、当時の切ない「うた」を一曲だけ聴いてみたいと思います。


 あのころよくラジオでもリクエストがあって、少しご年配の方なら、ご存知かと思います。「手紙」という作品です。


 兵庫県在住の女性が、結婚の夢をかき消され、「遺書」を残していのちを絶つ悲しい出来事がありました。彼女の「遺書」をもとに、岡林さんが作品に仕上げ、歌いました。


 1960年代の忘れることのできない「うた」のひとつです。じっくり聴いてみましょう。(「手紙」を聴く)


   一 私の好きな満(みつる)さんが
     おじいさんからお店をもらい
     ふたり一緒にくらすんだと
     うれしそうに話してたけど
     私と一緒になるのだったら
     お店をゆずらないと言われたの
     お店をゆずらないと言われたの


   二 私は彼の幸せのため
     身を引こうと思ってます
     ふたり一緒になれないのなら
     死のうとまで彼は言った
     だからすべてをあげたこと
     くやんではいない 別れても
     くやんではいない 別れても


   三 もしも差別がなかったら
     好きな人とお店がもてた
     部落に生まれたそのことの
     どこが悪い なにがちがう
     暗い手紙になりました
     だけど 私は 書きたかった
     だけど 私は 書きたかった


 わたしたちは、1974(昭和49)年に「神戸部落問題研究所」を創立して、同和地区の実態調査や地域の歴史研究をすすめて、当時すでに全国的にも混沌としていた「同和行政」や「同和教育」、さらには「部落解放運動」のあり方について、自由に検討をおこなう取り組みをはじめていました。創立後しばらくして、わたしは、ここの事務局の責任を担うことになりました。


           『私たちの結婚』の編纂


 それまで「本をつくる」など考えたこともありませんでしたが、はじめてつくった作品が、いまから30年も前に出版した『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』という本で、「市民学習シリーズ」の一冊に収められて、広く愛読されました。
 

 30年も昔ですから、まだ部落差別による結婚差別があちこちでおこり、解放運動をになう人々が「糾弾闘争」に立ち上がり、自治体の担当者の方々までも同席して、問題の解決にあたっていました。


 当時わたしも、そうした場面にも立ち会う機会があって、この問題の解決のあり方について、いろいろ考え続けていました。


 あのころ、解放運動団体による「確認・糾弾」という取り組みも一定の意味をもっていましたが、「結婚」という「男と女」「親と子」など、社会運動の領域とはちがう独自な領域のことに、運動団体などが不用意に立ち入ることには、違和感がありました。


 しかも当時すでに多くの人々が、それまでの厳しい条件のなかでも、差別の厚い壁を乗り越えて、幸せな結婚家庭を築いてきておられました。


 幾組みもそれを身近に見ていましたので、その結婚家庭の確かな事実をこそ、積極的に取り上げて、これから結婚しようとする若い人々に、それを知らせることこそが、大切ではないかと考えました。


 それで、そうした友人たちのカップルを訪ね、さらに新たに紹介もしてもらいました。ずいぶんと手間ひまのかかるものでしたが、結局一八組のご夫婦をお訪ねし、テープに収録することができました。


 なかには、つらかったときのことを涙ながらに語られるカップルもあれば、ただただ「おのろけ話」に聞き入るばかり、ということもありました。とにかくそれぞれに、壁を乗り越えて結婚家庭を築き、現在の幸せをつかんでいる方々のお話は、どれもこれも、わたしにとって大きな希望のメッセージでした。


 18組のうち13組の方が、匿名のかたちですが公表してよいという了解を頂くことができ、これをそのまま文章化して、『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』の作品を完成したのです。1976(昭和51)年9月のことです。


 戦後間もないころ、1950(昭和25)年の雑誌『部落問題』(現在の『人権と部落問題』の前身)で「部落と結婚」を特集し、つぎのような「あとがき」を載せています。


 「『わが青春に悔なき』人生を、部落の若人達は幾人ほほえんでいるでしょうか。因習を越えて結ばれた愛が、生木を裂くが如く破れんとしている事実を、わたしたちは余りに多く知っています。
 しかしながら、冷たい長い冬の、荊の道を辿りながら、堅く結ばれた愛を見事にみのらせた美しい事例を、今は、二つ三つと数えることができるようになりました。」


 そしてそれから4半世紀を経てできた右の作品のカバーの見返しに、わたしは、つぎの言葉を添えておきました。


 「部落問題をめぐる状況も大きく変化し、「愛を見事にみのらせた美しい事例」も、今ではけっして珍しいことではなくなりました。そして、若者たちは胸を張り、堂々と古い壁を乗り越えて、強くたくましくすすんでおります。まことに頼もしい限りです。彼らは、本書に登場している先達の言葉(行為)に励まされつつ、さらにこれらを批判的に乗り越え、新しい道を見出して行くことでしょう。」


             「星とたんぽぽ」


 ところで、お手元の資料に、皆さんよくご存知の「童謡詩人・金子みすゞ」の代表作のひとつ「星とたんぽぽ」を入れておきました。


 詩人や芸術家といわれる人々は、普通わたしたちが見失っている世界・見失っていることさえ忘れている大切な世界に、いつも目を注いでいるように思います。彼女は、1903(明治36)年に生まれ、1930(昭和5)年、26歳の若さで、その生涯を閉じました。


 「星とたんぽぽ」という作品は、このようにうたわれています。


     青いお空の底くかく、
     海の小石のそのように、
     夜がくるまで沈んでる、
     昼のお星は眼に見えぬ。
     見えぬけれどもあるんだよ、
     みえぬものでもあるんだよ。


     散ってすがれたたんぽぽの、
     瓦のすきに、だぁまって、
     春のくるまでかくれてる、
     つよいその根は眼に見えぬ。
     見えぬけれどもあるんだよ、
     見えぬものでもあるんだよ。


 このリフレイン「見えぬけれどもあるんだよ/見えないものでもあるんだよ」という断固とした「確かな言葉」が、強く響いてまいります。


 「木を見て森を見ない」ともいいますが、わたしたちはいつも、「見えない木の根っこ」も、うっかり忘れています。


 普通、「わたし」という存在が、まずぽつんと在るように考え、すべてがこの「わたし」からはじまるかのように、見ています。この「わたし」から、人との関係、社会との関係がはじまるかのように考えています。


 しかし実際のところはそうではなく、「わたし」も「あなた」も「わたしたち」も、「見えないけれどもあるんだ」とうたわれる「確かな土台」(大きないのち)が、だれのもとにも「あるんだよ」!


               目覚め


 突然、へんなことをいうようですが、あとですぐお話をする「阪神淡路大震災」を経験したあとに、避難先の書き下ろした小さなブックレット『「対話に時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』(兵庫人権問題研究所、1997年)を纏めました。


 そこにも書いたことですが、わたしにとって、この「確かな土台」(大きないのち)の発見(目覚め)は、これまでの見方をいっぺんさせてきました。


 この「大きないのち」は、わたしたちが新しく作り上げるものではなく、はじめから「ある」「確かな土台」です。この「ゆるぎなき土台」を「基軸」にして、「わたし」(個人性)も「あなた」(対人性)も、また「わたしたち」(社会性)も、日々新たに、いきいきと成り立ってくる! 


 この「基軸」を介して、わたしたちの「精神現象」と「物質現象」も、またわたしたちの「認識」と「行為」も、それぞれ独自の局面を構成して、成り立っているのだ! 


 こうした「見えぬけれどもあるんだよ」とうたわれる、人生の「土台」に目が開かれて、その「よろこび」のうちに、新しく「いま・ここ」を生きること、すべてのひとが促され、激励されているのだ!


 このような基本問題が明らかになると、「結婚家庭」という「対人性」の領域と、「解放運動」という「社会性」の領域とは、はっきりと区別されていなければならないことも、見えてまいります。


         M・ピカート『ゆるぎなき結婚』


 「結婚」については、誰でも大きな関心を持っています。わたしも学生時代から大変興味がありました。


 結婚する前ですが、マックス・ピカートの名著『ゆるぎなき結婚』(みすず書房)という作品を愛読いたしました。わたしたちも「結婚家庭」をはじめてから早くも41年にもなりますが、いまでも時折これを取り出して、ピカートのことばにふかく共鳴させられています。


 ピカートは、1888年生まれですので、賀川豊彦と同い年でしたが、賀川より5年長生きして、1965(昭和40)年に亡くなりました。


 彼の作品は、『沈黙の世界』『人間とその顔』『神よりの逃走』(以上みすず書房)『われわれ自身のうちなるヒットラー』(筑摩書房)『騒音とアトム化の世界』(創文社)など多くの作品が、佐野利勝先生の名訳によって翻訳されていますから、皆さんの中にも愛読しておられる方もあるでしょう。


 ピカートがいうところの「ゆるぎなき結婚」とは、たんに「男と女」「女と男」の間の「愛」のことではありません。ふたりの「愛」はいつも不確かで揺らいでばかりかもしれませんが、ピカートは、この著作のなかで、こう記します。


 「結婚は一つの客観的事象である。結婚は夫によって、または妻によって創り出されるものではなく、逆に夫と妻とが結婚によって創られるのだ。(中略)人間は―つまり夫と妻とは―そのような結婚が逃げて行かないように見張っている必要はない。結婚は常にそこにある。実際、この結婚はつねにそこにある、そして人間を見守っているのである。」(33頁)


 本日の資料のなかにも『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』の「序章・結婚と部落差別」の一部を入れてもらいましたが、そこにもピカートの、つぎの短い言葉を引用しています。


 「結婚は、人間がそこへと歩いてゆくというよりも、寧ろ結婚自身が彼の方へ―人間の方へ―歩み寄るのである。(中略)結婚は夫によって、または妻によって創り出されるのではなく、逆に夫と妻とが結婚によって創られるのだ。」(同頁)


 神戸における部落解放運動のなかでは、1970年代の半ばには、「確認・糾弾」という取り組みはおこなわれなくなり、結婚差別の事象があっても、結婚という「対人性」の領域に社会運動の「社会性」を不用意にもちこむことはしない智慧が活かされていました。
そしてこの『私たちの結婚』は、類書も少なかったこともあって、最近絶版になるまで、長期にわたって広く市民のあいだで読み継がれてきました。


 こうしたことから、「部落差別に関わる結婚相談」にも、折々応じてまいりました。その場合も、「部落問題」への誤解や偏見を丁寧になくしていくことはもちろんのことですが、むしろそれ以上に、積極的に「結婚家庭」ということを、当事者のおふたりがどのように受け止めているのか、ということに焦点を置いて、ずっと相談に乗ってきました。


 ふたりのあいだに恵まれた不思議な「絆」である「ゆるぎなき結婚」にめざめることが、当面する「部落差別」を乗り越える、最もパワフルなバネになることを、そのときあらためて知らさたように思います。


 現代においては、「部落差別」はほとんど問題ではなくなりましたが、「結婚」についての混沌・混乱がひろがって、その意味での「結婚差別」が一般化しているようにも思えるのです。


 これから新しく「結婚家庭」を築いていく若い先生方も、わたしたちのような結婚四〇年以上にもなる者にとっても、「結婚」という事象そのものは、長い人生の途上で、まことに不思議なものでありつつけます。



                 


1  岡林信康のデビュー25周年として自らを語った『伝説・信康』(小学館、1991年)などレコード・CDもよく流行ったが、現在も各地でコンサートを開き、自作イラストつきの最新のエッセイ『バンザイなこっちゃ』(ゴマブックス、2005年)も好評である。