「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第17回)(未テキスト化分)


 賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて

 第17回・未テキスト化分


      第五章 い の ち 輝 い て―神戸からの報告
             
                 
               はじめに
 

 第40回目の大きな節目の記念すべき研究大会にお招きいただき、大変光栄に存じます。


 会長の片西登先生や事務局の森茂夫先生には、事前の打ち合わせをふくめ、随分お世話になりました。先月ご多忙のなか、片西会長から丁寧なお手紙を頂きました。舞台裏のことになりますが、先生のお手紙には参加の皆さんのねがいを代表して、ふたつの希望を書いてくださいました。


 ひとつは、「実体験に基づいた同和問題のお話をお願いしたい」。そしてもうひとつは、皆さんにも大変助けて頂きました10年前のあの「阪神淡路大震災のことにも触れてもらえないか」というものでした。こうした希望や期待を事前に聞かせていただくことは、とても嬉しいことです。そのことで、話すべき「焦点」フォーカスができるからです。


              新鮮な問い


 実際、日ごろ先生方も、子どもたちが今どのような問いや期待を抱いて、毎日学校に来ているのか、いつもその「新鮮な問い」に応えようとしておられると思います。


 ひとりひとりが、自分の「問い」を大切にして「学ぶ」という意味での「学問」は、おそらく乳幼児のときから、いや母親の胎内にいるときから、すでにはじまっているのでしょうね。そしてそれはいくつになっても、自分の新しい問いをもって学びつづけているのが、人間というものなのでしょう。


 レジュメの最初に「よい問いがもてることが学びの宝」と書きました。これは、このたび片西先生のお手紙を拝見して、最初に思ったことでした。


 皆さまが大きな期待をもって、本日の準備にとりくんでおられることが、とてもよくわかりました。そしてわたしの貧しいお話でも、がまんして聞いていただく皆さんが、豊かにうけとめ、中身を膨らませていただける、そういう期待感が、つよく沸いてまいります。


 副題には「神戸からの報告」としています。


 当たり前のことですが、「神戸からの報告」は、ご当地・京丹後でくらしておられる皆さんのご経験とは、当然大きく違うと思います。場所によって歴史が違い、ものの考え方も違います。この「距離感」「間の取り方」が、とても大切なことだと思います。


 どうぞ、ご自分の経験やお考えを、いつも大事にして、これからお話しすることに対しては、大いに批判的に聞いていただければ、たいへん気が楽でございます。批判的にお聞きになりながら、そこに何か「新しい発見」があれば、嬉しいのです。


 さて、今日のお話の題は、「いのち輝いて」とさせていただきました。このような題でお話をするのは、わたしにとって初めてのことです。


 実は、柄にもないことですが、もう長い間、若い学生諸君を相手に「人権教育」とか「部落問題と人権」という科目の講義を担当しています。


 「人権教育」という場合も、その基本は、やはりかけがえのない、ひとりひとりの「いのち」を輝かせるための、日々の教育的営みであると思ってきました。レジュメには「人権教育は、いのちの輝きを享有(エンジョイメント・受用)する教育的営みである」と記していますように、そのような見方で、関わり続けてまいりました。


         人権教育・啓発に関する基本方針


 本日は、事務局の先生方にご無理を言って、いくつかの資料を印刷してもらいました。


 ひとつは、「人権教育・啓発に関する基本方針」の概要です。これは、兵庫県人権啓発協会の機関紙からとったコピーですが、先生方はすでにこの「基本方針」については、詳しく学んでおられると思います。


 1969(昭和44)年からスタートした同和問題解決の特別法が13年間経過しましたあと、1982(昭和57)年には、「同和対策」から「地域改善対策」へと名称変更を加えて法的措置が継続され、延々と33年間もの長期にわたって、特別法のもとでの取り組みが行われてまいりました。


 2002(平成14)年3月末まで、多くの試行錯誤を重ねながら、地域の皆さんも、先生方も行政の方々も、この課題に熱心に関わってこられました。


 そして現在、「同和問題から人権問題」へ、「同和教育から人権教育」へと、大きくその焦点を移してきております。2000(平成12)年11月の「人権教育・啓発推進法」の制定をうけて、2002(平成14)年に「基本計画」が策定され、ご当地でも「京丹後市の人権教育・啓発に関する基本計画」もできていると思います。


 この説明は本日いたしませんが、21世紀を迎えた現在の到達段階と、問題関心の焦点を、的確につかむうえで、参考にしていただきたいと思います。


 何事も、「問題そのものの基本認識」とともに、こうした「歴史的経過及び現状の認識」を正確にすることが、不可欠でございます。


           第一節 同和問題とわたし


 さっそく本題に入り、先ず「同和問題とわたし」のところから、自己紹介もかねて、お話をはじめることにいたします。


 現在わたしは六五歳です。面白いものですが、いくつになっても関心の焦点は「いま・ここ」であります。そして「これから」のことにあります。「過ぎ去った過去」を振り返ることには、なかなかまいりません。


 もちろん、「いま・ここ」というのは、個人的なこととしても、また地域や日本社会、地球や宇宙の歴史という場面でも、過去の重い歴史が背景にどっかと控えています。


 「これまで」があって「いま」があるのですから、新しい一歩を踏み出すために、歩んできた過去をしっかりとふまえ、思い起こしてみることも、決して無駄ではありません。「実体験に基づいてお話しする」ということは、いくら不本意でも、過ぎ去った自らの経験を、思い切ってお話しするということになります。


             出合いの不思議


 わたしの故郷は、この日本海を少し西に行った山陰・鳥取県です。今回の合併で、倉吉市に加わりましたが、「静かな山のいで湯」として知られる片田舎の関金(せきがね)町というところです。先生方のなかに、同郷の方もおられるかもしれませんね。


 中学生までの将来の夢は、皆さまと同じような先生に、とくに小学校の先生になることでした。


 人生には、何度か「不思議な出合いのとき」というものがあるようです。わたしの場合、高校生になってから、面白い牧師夫妻と出合って「新しい夢」が宿りました。わたしの「新しい夢」というのは、「将来、田舎の小さな教会の牧師になりたい」という夢でした。


 ことし戦後60年ですが、父親がなくなって60年が過ぎました。母子家庭の三男坊で、大学進学など経済的にはとうてい無理でしたが、母子奨学資金や兄からの援助などを受けて、京都の同志社大学神学部に進学しました。わたしの学生時代は、ちょうど「六〇年安保」の時代です。


 1960(昭和35)年という年は、同和問題の解決の歴史から見ても重要な年で、国の諮問機関として「同和対策審議会」が設置された節目になる年です。大学の3回生の時でした。


 忘れることが出来ませんが、この年に亀井文夫監督のドキュメンタリー作品「人間みな兄弟」が製作され、それを学生寮で見たのです。京都・和歌山・大阪・三重など近畿地方の「未解放部落」にカメラを持ち込んで、人々の暮らしを生々しく、そして淡々と映し出した作品でした。勿論モノクロです。


 若い先生方は、このドキュメンタリー作品を御覧になっていないかもしれませんが、これには大変な衝撃を受けました。小学校・中学校時代の友人たちのことも重なって、この問題は、他人事ではありませんでした。


 そして同じ年に、写真家の藤川清さんが、小さな文庫版の写真集『部落』(三一書房)を出版され、これまた強烈な印象を残しました。また、住井すえさんの長編小説『橋のない川』が雑誌『部落』に連載されはじめたのも、あの時でした。


 よくもまあ、戦後このときまで、この問題を未解決のまま放置してきたものだと驚くと同時に、わたしにとってこれは「現実への目覚め」のときでもありました。


 6年間の学生生活を終え、念願の牧師になり、幸い人生のパートナーとも出合って、最初の任地は滋賀県の琵琶湖畔にある小さな農村の教会でした。


 そして2年後の1966(昭和41)年春には、奇しくも神戸の「賀川豊彦」が創立した大変ユニークな「神戸イエス団教会」に赴任することになりました。


               賀川豊彦


 「賀川豊彦」という人は、1888(明治21)年に神戸で生まれ、1960年に東京で71歳の波乱にみちた生涯を閉じた、世界的に知られた社会運動家です。彼は牧師であり、詩人であり小説家でもありました。


 本日のテーマ「いのち輝いて」は、まさしく「賀川豊彦の人と生涯」が、ぴったりの人物のように、わたしには思えます。


 それでも、先生方のなかに「賀川豊彦」の名前を知らない方もおられると思いますので、少しだけふれさせていただきますと、彼は神戸で生まれましたが、まだ幼いときに両親が病気で亡くなり、父方の故郷・徳島で幼少年期を過ごします。徳島中学を出て、東京の明治学院で学び、さらに新設された神戸の神学校で学生生活を送るのです。


 もう百年近くも前のことですが、1909(明治42)年の暮れ、クリスマス・イブに、学生の賀川豊彦は二一歳の若さで、思うところあって、当時「日本一の貧民窟・葺合新川」と呼ばれていた地域に、ひとり住み込み、救済活動に没頭いたします。


 賀川は、2年あまりのプリンストン大学への留学期間はありましたが、この「葺合新川」を主たる活動拠点にして、労働運動・農民運動・協同組合運動など草創期をきりひらく先駆者のひとりとして活躍いたします。


 そして1923(大正12)年9月の関東大震災救援のため、活動拠点を東京に移してからも、彼の心のふるさとは。神戸から離れることはありませんでした。


 特に、彼の自伝小説『死線を越えて』(改造社、大正9年)は大ベストセラーとなって、諸外国でも翻訳出版されたりいたしました。


 そして、良くご存知の「全国水平社」の創立に導いた「西光万吉」や「阪本清一郎」などとの、深い交流のあったことなども、広く知られています。


 すでに賀川豊彦の没後、はやくも半世紀近くなりますし、2009年には「葺合新川」で働きをはじめて100年を迎えることから、「賀川豊彦献身百年記念」の事業企画が検討されつつあります。


              ひとつの実験


 ところで賀川には、「葺合新川」とはべつに、神戸市内にもうひとつの活動拠点がありました。それは長田区の「番町」と呼ばれる大規模な「未解放部落」でした。


 わたしたちは、「神戸イエス団教会」での2年間を過ごした後、「賀川豊彦」の働きなどにも大いに触発されて、1968(昭和43)年春から、この「番町地域」の住民となって、新しい生活を始めたのです。


 それまでの「教会の中で働く牧師」のかたちではなく、「地域(世界)の中で生きる牧師」のかたちの「ひとつの実験」として、歩み始めたのでした。「牧師を職業としない」で、自ら労働をして自活するあり方の「実験」でした。


 わたしたちにはすでに、ふたりの娘(三歳と四歳)がいました。


 当時の地域のなかでは珍しいことではありませんが、六畳一間の「文化住宅」を借りて、ゴム工場の雑役をしながらのスタートでした。相方とわたしは「牧師」ですが、信徒がひとりもいないという、まことにこれは珍しい「世界一小さな家の教会」が誕生いたしました。そしてこれは、同年4月16日に、プロテスタント日本基督教団に承認され、「番町出合いの家」が公にもスタートしたのでした。


 ここで、当時を映し出した旧い映像を、ほんの少しだけ見ていただきます。


 1969(昭和44)年2月、東京12チャンネルという民法テレビで放映された「ドキュメンタリー青春」という番組で、まだ白黒テレビの時代です。


 フォーク歌手の岡林信康さんが音楽をひきうけ、「チューリップのアップリケ」や「山谷ブルース」など、今では懐かしい「うた」も収められています。


 あの頃の、わたしたちのまちとゴム労働の現場の映像を見てください。仕事場は現在もほとんど変っていませんが、まちはまったくその面影は残っていません。(短く映像を写す)