「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第9回)(未テキスト化分)


賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第9回・未テキスト化分


        第一章 賀川豊彦 没後四〇余年

    
         第三節 二一世紀に生きる賀川豊彦


       (前回の続き)


       2 地域の再生―出合い・友愛・協同


 賀川の基礎視座には、すでに度々言及してきましたように、つねに広く深く「宇宙意志」「宇宙の目的」に即応することに注がれていました。


 それは単なる抽象的・観念的なものとは違い、自らの日常の暮らしと生活をかけ離れることはありませんでした。というよりむしろ自らの「生活の座」を「宇宙意志」「宇宙の目的」から、つねに受け取り直すことを意欲し、貧困・病気・戦争といった「宇宙悪」の問題の解決にむけて、不断に情熱を燃やして、生き貫いたということができます。


 そしてその解決方法も、単なる人間的な怒りや憎しみ、憎悪や高慢に支配されることなく、人間本来の普遍的な共通の土台に立ち返って、確かな「いのちの知慧」を学び取り、身をもってそれを証しようとするものでした。


 消費組合運動、労働組合運動・農民組合運動・水平社運動などのいずれに対しても、単なる私的利権や暴力的行為などに押し流されず、暴力に対して暴力をもって報いる「報復の連鎖」は、けっして彼の選ぶ道ではありませんでした。いかなる理由によっても、暴力を合理化せず、厳しくこれを乗り越えていく道を第一にしてあゆみ続けました。


 賀川がその生涯を閉じる1960(昭和35)年前後は、冷戦時代のただ中でしたが、本章のはじめにも触れましたように、「対話と出合い」が新しいキーワードになりつつあった時代でした。


 たとえば、『我と汝・対話』の著作で世界的に知られた「マルティン・ブーバー」の作品が、次々と日本でも翻訳されて注目を浴び(注1) 、ドイツの戦後復興を導いた「エバンゲリッシェ・アカデミー運動」の「出合いと話し合い」の取り組みである「ターグング運動」(注2) などが、日本でも少しずつスタートしつつありました。そうした影響をうけて、わたしの中にもこのときすでに「出合いの家」の構想が、しっかりと宿りつつありました。
 

 賀川豊彦の場合は、あらためて取り上げるまでもなく、生涯の中心的な柱としてきたものは、「友愛と協同」ということでした。「友愛の経済(Brotherhood Economics」とか「相互扶助」にもとづく真の世界形成の働きは、協同組合運動や協同組合保険の取り組みとして具体化していきました。(注3)


 神戸を拠点に展開し現在に至る「コープこうべ」は、まさに彼の抱いた夢を、21世紀に受け継いだものです。また、1980年代の後半から、わたしたちの神戸の地域で育ててきた非営利・協同の新しい流れである「ワーカーズコープ」(労働者協同組合)や「高齢者生活協同組合運動」(注4) なども、賀川の志向するものとけっして別のものではありません。


 近年ようやく日本でも注目を浴び、震災後とくに活発化している「NPO」の本格的な自発的活動も、賀川豊彦の志向する道と共通する、大切な基調が息づいているものと見ることができます。
 

 そのことはまた、かつて「賀川豊彦の『協同・友愛』『まちづくり』―創立期の水平運動と戦前の公営住宅建設」(「部落問題研究」120号、『賀川豊彦再発見』に収める)をまとめる中で気付いたことですが、賀川豊彦にとっての大きなテーマは、「地域の再生」ということではなかったか、ということでした。


 実際、賀川豊彦自ら「死線を越えた地域」である「葺合新川」にあって目指したものは、そこで暮らす「人々の生活そのもの」を立て直すことでしたし、この「地域」の根本的な変革と再生をすすめることにありました。

 
 21世紀を迎えた現在、日本はいっそう超高齢社会になり、社会福祉の課題も事実上、それぞれの市町村の大事な仕事になり、その主体的な担い手は、それぞれの住民自身の自発的・自覚的なパワーにあることは、誰の目にも明らかになってきました。


 わたしたちが、新しいまちをつくり「地域の再生」を実現していくためには、「出合いと友愛・協同」という、古くて新しい本来の関係を、わたしたちの足元の「生活の場所」のところで、一歩一歩着実に取り戻していく、地道な努力が欠かせません。その新しい一歩を踏み出すためにも、「賀川豊彦」の歩んだ足跡の中から、大切なヒントを汲み取る楽しみが、わたしたちに待たれています。


 あの震災の時、全国のボランティアの人々による活動は、わたしたちを勇気づけ、「新しい時代」を予感させましたが、あのとき地元「コープこうべ」や「賀川記念館」などで取り組まれた働きは、賀川の遺した「いぶき」を受け継ぎ活かしていった一事例でもありました。(注5)


      3 新しい自己の自覚―確かな座標軸の発見―

 
 前記のように2001(平成13)年は「ボランティア国際年」で、その「先駆者のひとり」として「賀川豊彦」が注目を浴びました。


 神戸を拠点に国際的なボランテア活動を展開してきた草地賢一氏は、震災のあと惜しくも早逝されましたが、彼の言葉で表現すれば、ボランティアとは「いわれなくてもする。いわれてもしない」自立している市民のことであり、「自発的に行動を起こすことのできる市民」がになうものだといわれます。(注6)


 「賀川豊彦」の神戸におけるあの「献身的」な「新しい生活」は、まさに「自発的に行動を起こすことのできる市民」としての先駆者であると、一応とらえることができます。
 

 しかし彼の場合、「逆境の中で」「闘病と懐疑」を潜っておとずれた「自己そのものの新しい発見」がありました。


 つぎの言葉は、かつて『賀川豊彦と現代』の「新しい決意」の箇所で、このように記しました。


 「無価値とばかり思えるこの自己も、この世界も、単に私がそう思うように無価値であるのではない。全く逆に、このわたしも、この世界も、どのように不信と争乱のもとにあろうとも、はじめから無条件に価値あらしめる方が、すべての人・ものと共におられ、奮闘しておられるのだ。なぜこれまで、このことに気づかずに来たのだろう。」(29〜30頁)。
 

 これは、賀川の書物からの直接の引用ではなく、まぎらわしい言い回しでしたが、わたしの勝手な表現です。右の「自発的に行動を起こすことのできる市民」である「わたし」の「成り立ち」への「新しい発見と自覚」が、賀川豊彦の献身のはじめにはあったのだということを表現した箇所でした。


 単なる「自発的な行動」ではない、その「自発的な行動」を成り立たせる「いのちそのもの」との「関係の発見と自覚」とでもいうのでしょうか。


 賀川豊彦には、「逆境の中で」「闘病と懐疑」のただなかで、この「新しい自己そのものの発見」が訪れていたのです。それは、単なる「個人の自覚」ではなく、確かな「いのちそのもの」との関係のなかにある「新しい自己の自覚」であり、そこに息づいている「確かな座標軸の発見」であったのです。


 この「確かな座標軸」が、すべての人のもとにおかれていることへの、喜ばしい目覚めのおかげで、あの「献身的」な「新しい生活」がスタートしたのでした。ここから、賀川豊彦の「新しい人生」が開かれていきました。


 賀川豊彦にとって大切なことは、「確かな座標軸」に働く「いのちそのもの」を讃えて生きることでした。賀川は、つぎのように記しました。


 「私は先ず生命ということから出発する。
  それは力である。
  それは私に内在する。そのくせ私自身ではない。私はどうしても生命自体を私が支配しているとは考へ得ない。むしろ生命が私を支配してゐるやうに感じる。だからこそ私は生命の神に跪拜するのである。
  私は生命の神のほか何の神をも信じていない。それは私にとっては実在の実在であり、価値の価値である。」
            『宗教読本』第一書房、昭和12年、54〜55頁)


 これまでわたしも他の著作のなかで度々ふれてきましたように、第一義的な意味で重要なものは「宗教」にあるのではありません。大事なのはそれを成立させる「確かな基礎・座標軸」の「いのちそのもの」にあるのです。


 この「基礎」「座標軸」に宿る「大きないのち」そのものは、人間が勝手に築き上げたり壊したりすることのできるものではありません。万人のもとに等しく置かれている「確かな基礎・土台」であり、「ダイナミックなパワー」です。(注7)


 「社会教育家」を自認した賀川は、山奥の農村や辺鄙な漁村、また都市の下町や街頭で語るときも、「新しい自己の自覚」を促し、告げ知らせることを基調として、「何しても心の奥が滅びては駄目です。」と訴え続けたのでした(「賀川豊彦氏大講演集」大日本雄弁会、大正15年、115頁)。


 そしてご自分の日々の歩みを通して、「非宗教的宗教の運動」(同書、359以下参照)の重要性を証(あかし)していきました。(注8)
 

 賀川豊彦の面白さは、彼の「行為・実践・生き方」のユニークさにのみあるのではありません。同時に彼の「思惟・認識・考え方」(独自の聖書理解や宗教思想)のなかにこめられた魅力も、21世紀に受け継がれていきます。(注9)


 「思惟と行為」「認識と実践」「考え方と生き方」をトータルに成り立たせ、心身共に健やかにする「確かな基礎・基軸・土台」が、彼を(またわたしたちを)常に新しく支え・励まし・力づける「いのち」であることを、賀川豊彦はその全生涯を通して指し示してきたのだと、わたしは考えています。


                 


1  マルティン・ブーバー(1878〜1965)は「対話的思想家」として日本でも広く知られる。代表作『我と汝・対話』は岩波文庫の植田重雄訳、みすず書房の田口義弘訳、創文社の野口啓祐訳などある。


2  「エバンゲリッシェ・アカデミー運動」は、1945年にドイツのバード・ボルに創設されたユニークな「話し合い運動」で西ドイツの戦後復興に大きく貢献した。日本では賀川と共に農民組合を創立した杉山元治郎が初代の理事長となり1961年に「日本クリスチャン・アカデミー」が創設された。


3  賀川の「相愛扶助」「共愛互助」の重要なかたちである「協同組合保険」に注目する本間照光(青山学院大学教授)の論攷「賀川豊彦の協同組合保険への軌跡と論点』(東北大学経済学会『経済学』通巻186号、1992年)、「賀川豊彦の協同組合保険論』(北海学園大学経済学会『経済論集』第三九巻第四号、1992年)など参照。


4  神戸における「ワーカーズコープ」の取り組みは1980年代半ばから準備され、期せずして賀川生誕100年記念の年に創立された。ホームヘルプ事業や配食サービス部門を引継ぎ1999年「兵庫県高齢者生活協同組合」として地域福祉の活動に取り組み、2002年12月には社会福祉法人「きょうどう」を創設し、精神障害の就労分野の開拓にも挑戦している。


5  賀川記念館便り『ボランティア』第72号・73号など参照。2003年初頭から「賀川記念館のこれからを考える」懇談会が設置され、当館館長村山盛嗣・同理事長今井鎮雄両氏らを中心に、21世紀に生きる新たな夢が構想されつつある。(補記・2006年4月より村山館長にかわって高田裕之氏が館長に就き、本書「はしがき」などにふれた「賀川豊彦献身100年神戸プロジェクト」の中核を担っている。)


6  草地賢一「『ボランティア』を考える』(『月刊部落問題』第260号、1998年8月)。そこで草地氏は、21世紀を見据えて求められることは「Think Globally act Locally-地球規模で考え地域で実践する」ことであることを強調している。


7  前掲拙著「『対話の時代』のはじまり−宗教・人権・部落問題」特に第二章「宗教は面白い」並びに『部落解放の基調―宗教と部落問題』第二章「宗教の基礎」など参照。
賀川のこの「非宗教的宗教運動」は、大正14年の「イエスの友関西連合修養会」における提言であるが、戦時下ドイツで果敢に生き若くして処刑された神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの有名な「獄中書簡」では、独自に宗教の「非宗教的解釈」の新しい一歩を進めた思索の跡は、私たちの歩みにも大きな影響を与えた。(『ボンヘッファー獄中書簡集』新教出版社・1988年、『ボンヘフアー/マリーァ・婚約者との往復書簡集1943―1945』新教出版社・1996年など参照)


8  本稿では言及する余白もないが、賀川豊彦の上記のような「非宗教的宗教運動」を促す「イエスの宗教」に関する彼独自の理解は、21世紀に生きる私たちには特に新鮮である。


   (次回に続く)