「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』(第2回)未テキスト化分)



 賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第2回・未テキスト化分


       はしがき―「賀川豊彦献身100年記念」を前に


   (前回の続き)


    本書の構成


 本書第一章は、1960(昭和35)年にその生涯を閉じた賀川豊彦の「没後40余年」の時の流れを、私的な歩みと重ね合わせて、できるだけわかりやすく簡潔にまとめてみた「個人的ノート」です。


 はじめにこれは、兵庫県人権啓発協会の『研究紀要』第4輯に発表されたあと、『人権の確立に尽くした兵庫の先覚者たち』(同協会発行)その他でも、求めに応えて公開されてきたものです。


 つづく第二章では、これまで過熱気味に論じられてきた「賀川豊彦と部落問題」を、この段階で総括的に整理し、「部落問題の解決と賀川豊彦」として概観してみたものです。


 これも未熟な忘備録ふうのノートのままですが、最初、明治学院大学で開催された賀川豊彦学会の公開講演会で発表のあと、『賀川豊彦学会論叢』第14号に掲載され、このたび部落問題研究の老舗として知られる、京都の部落問題研究所の研究紀要『部落問題研究』の最新号(第177号、2006年10月)に補筆して収めたものです。


 右の第一章と二章のふたつの論稿をもって、これまで「賀川豊彦と部落問題」として論じられてきたものに、一応の決着をつけることができたのではないか、と考えています。


 なにぶん、「賀川豊彦と部落問題」と申しましても、一般にはほとんど関心もなく、正確な情報も届きにくい主題でもありますから、「賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて」という著書のなかで、この問題を直接扱うのには、正直なところ、少々場違いの感もあるかもしれません。


 しかし「賀川問題」が右のような経緯であっただけに、「賀川豊彦と部落問題」に関する基本的な理解と、それに対する自らの見解をもつことなしには、どこかほんとうには賀川豊彦理解に一抹の不安を覚えてしまう、といわれる方々も少なくないようです。


 もちろん、この問題はけっして難しいことではありません。この機会に、問題の所在がどこにあったのかを見ていただいて、わたしのような「ひとつの見方」もあることを、目に留めていただくことができければ、有難く存じます。そしてここに書き記した「ひとつの見方」に対して、こんごも読者の厳しいご批評を期待して、さらなる研鑽を重ねていきたいと願っています。


 ところで、第三章の「21世紀に生きる賀川豊彦」は、わたしの属する日本基督教団の、四国教区徳島分区信徒会の総会にお招きを受けたおりの、下書き草稿です。


 わたしにとってはこれまで、教団内部からのこうした講演依頼は、じつは大変稀なものでしたので、格別の印象を残しています。御覧のように、そこでのお話は、いつものようにまとまりのないずさんなものですが、講演のあとの皆さんとの「開かれた自由な意見交換」は、わたしにとってありがたい経験でした。


 本書でも記していますように、わたしたちは、1966(昭和41)年4月より、賀川豊彦の働きのなかで成長してきた「神戸イエス団教会」から招聘されて2年間、貴重な経験をさせていただいた後、1968(昭和43)年春からは、神戸における賀川のもうひとつの活動拠点として知られる長田区番町地域で、「在家労働牧師」としての新しい生活をはじめました。


 もう40年近くも前のことですが、当時はまだ、同和対策の特別措置法が策定される前で、「未解放部落」などという用語が違和感なく使われていた時代でしたし、この地域はとくに「大規模都市部落」として広く知られていて、解決すべき諸課題が山積していた時代でした。


 相方と共に「牧師としての按手礼」を受けた後でしたが、六畳一間の小さな我が家を「番町出合いの家」と名づけて、夫婦ふたりの牧師だけの(当時は幼いふたりの女の子がいましたが)、日本基督教団公認の伝道所としてスタートしました。


 わたしたちが「牧師」であることも、我が家が公認の「伝道所」であることも「知る人ぞ知る」ままに、「日々の出合い」を楽しんで、感謝のうちに歩んでまいりました。


 33年間という長期にわたる同和対策事業の法的措置の期間を終えて、はや今年(2007年)まる5年も経過しています。多くの人々の努力がみのって、かつての地域の生活環境は一変し、人々の暮らしも変りました。


 わたしたちも、ありがたいことに、いつも「大きないのち」の支えと励ましを受け、多くの先達や友だちにも恵まれて、「在家労働牧師」としての、小さな歩みを、こんにちまで継続することができました。激動の渦のなかにありながら、そのなかで「信じて生きる」ことを、いくらかでも学ぶことが出来たように思います。


 歩み始めたしばらくのあいだは、日々の労働とともに山積みされた地域の課題に没頭していて、まさにモグラのような暮らしに明け暮れていましたので、教区・教団との直接的な責任ある関係は、ほとんど持てず、「在家労働牧師」として生きるという「ひとつの実験」に打ち込むときがつづきました。


 ところが、1970年代になってから日本基督教団は、教団関係者の出版物に「差別表現」があるとして「部落解放同盟」による「確認会」をうける事態をむかえます。本書でふれていますように、1980年代には、日本の宗教界は、仏教教団を中心に「部落問題フィーバー」で大揺れいたします。


 それは、1979(昭和54)年の第3回世界宗教者平和会議における曹洞宗宗務総長の発言(「日本の国の中には差別待遇はない」として「報告書」から「日本の部落問題」を削除させた)をめぐる問題などを契機にして、日本の宗教教団に対する厳しい「確認・糾弾」行為が行われ、1981(昭和56)年には「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」という、特定の運動団体との連帯組織がつくられていきました。


 わたしたちの教団もこれに積極的に加わり、教団内に「部落解放センター」を設立して連帯活動をすすめていきます。


 そして、特別措置法が策定されて31年も経過し、神戸では「同和対策事業」そのものを終結してしまった2000(平成12)年7月になって、わたしたちの教団では、はじめて「日本基督教団部落解放方針」を決めて、「教団・教区・教会として部落解放運動」をすすめようとしています。


 これは、右のような複雑な全国的な状況と教団内部の諸事情を反映したものとおもわれます。


 部落問題解決の歩みは地域によって大きく違いがありますが、神戸においては、すでに1971(昭和45)年の神戸市独自の詳細な「同和地区生活実態調査」を踏まえて「長期計画」を策定し、総合的な同和対策事業が開始されていました。


 ですから、1974(昭和49)年11月に引き起こされた、あの兵庫県立八鹿高校教師への「部落解放同盟」による「集団暴力事件」を契機に、行政も部落解放運動も、そして地元自治会組織などもこぞって、神戸市独自の計画方針を再確認して「長期計画」の完全実施にあたり、結果的に「部落解放同盟」との決別の道を歩むことになりました。


 神戸における部落問題の解決の独自な歩みについては、本書でもふれていますが、わたしたちの場合、教団および「部落解放センター」の右のようなとりくみには、こんにちにいたるまで、一定の距離を置いて批判的立場を頑固に貫いてきました。


 この間の、キリスト教界の部落問題への関わりについての批判的吟味は、右の事件が起こった年(1974年)の春に設立した「神戸部落問題研究所」(後に「兵庫部落問題研究所」「兵庫人権問題研究所」へと名称変更)の研究紀要『部落問題論究』などで「キリスト教と部落問題」や「宗教の基礎」といった諸論稿にまとめて発表してきましたし、それらはのちに『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、1985年)に収めましたので、御覧頂いた方もあると思います。


 震災のあとには『「対話の時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所、1997年)を、そして前掲『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』などで、日本の宗教界の抱えこんでいる基本問題を解くための「対話的解決のすすめ」を提起して、微力ながらその責任を果たしてまいりました。


 こうした歩みのなかでの、四国教区徳島分区信徒会総会における講演と「開かれた自由な対話の場」でありましたので、わたしには格別の喜ばしい機会となったのです。


  (次回に続く)