「賀川豊彦と現代」(第27回)(絶版テキスト化)


 賀川豊彦と現代(第26回


 絶版・テキスト化


         Ⅶ 賀川豊彦と現代


      三 宗教(者)の課題――国民融合の基礎−


 最後に、宗教(者)の課題として、二つのことを強調しておきたいとおもいます。


 その一つは、宗教(者)がたびたび陥ってきた、部落問題そのものについての間違った理解を、少しでも正しいものにしていく必要性についでです。そして他の一つは、宗教(者)が部落問題の解決のために果たす独自の課題と言えるものがあるのかどうか、あるとすればそれは何かについでです。


         1 部落問題の正しい理解


 まず宗教(者)の部落問題についての正しい理解の必要性については、本書でも記しましたように、一部になお旧態依然とした部落問題認識のもとに、独善的とも言える高圧的な解放運動のなごりが克服されずに存続している限り、強調されねばなりません。なかでも宗教教団の多くは、そうした逆流に押し流され、無批判的に迎合するばかりでなく、逆流に乗って率先して過熱してきたと言っても言い過ぎではありません。


 こうした現状を改めるためには、宗教者自ら主体的に、科学的な目をもって、部落問題そのものの正しい理解を得る努力が必要です。あまりに固定的なできあいの考え方をそのままにして、声高になるだけでは、無用の混乱と不信のみ生むことはさけられないことです。


 宗教者がいま、部落問題に取り組もうとするとき、この問題はそもそもどのような基本的性格をもつものであり、問題解決にむけて今日どの段階まで到達しているのか、また残されている課題が具体的にどう存在するのか、そして部落問題が解決された状態とはどのような状態をさすのか、といった基礎的な学びを地道に進めることが大切なのです。


 宗教者は往々にして、部落問題そのものの理解へと進むかわりに、ただ心情的に自らの「差別性」や「差別体質」を云々して「悲しき面容」をする傾きから自由になれません。それは、見分け難い宗教者の落し穴――偽善――であるばかりでなく、虚偽のつけいる格好の罠なのです。ほんらい宗教者は逆に、この落し穴のからくりをハッキリ見抜き、逆流に抗して潔く生きるところに、ほんとうの持ち味があるのではないでしょうか。


           2 国民融合の基礎


 このように部落問題の正しい理解を深めながら、わたしたちは同時に、宗教(者)の独自な課題についても確かめておかねばなりません。ここで言う宗教(者)とは、或る人が特定の宗教教団に属しているといった意味での特別のこと(人)をさすのではありません。むしろそれは、すべての人(もの)のもとにはじめから等しく据えられている確かな基礎に関わるものです。宗教者とは、こちらには何の取り柄もないにもかかわらず、何の幸いか、この基礎に目ざめさせられたにすぎない人のことです。ただ、このことをより正確にハッキリと見極め、この基礎のいのち・光・力に促されてよろこんで生きるところに、人としてのまた宗教(者)としての日毎のつとめがあるのです。


 その意味では、部落問題解決のために全力を傾ける人々にとって、ここで言う宗教もしくは宗教の基礎は、けっして無関係であるばかりでなく、逆にそれは現代の部落解放理論として多くの人々の共感を得ている国民融合論の基礎と、直接関わるものだと言わねばなりません。したがって、部落解放に取り組む人々と宗教(者)とは本来、お互いに響き合い、相互に変革し合う関係におかれているのです。宗教(者)は部落解放の息吹きによって新しくされ、部落解放そのものも、宗教からより明確な基礎を確かめることができるのです。つまり、宗教者であることと、部落解放に取り組むこととは、けっして矛盾するものではありません。むしろそれは、ごく当り前の自然なことであるのです。


 賀川豊彦は、その点においても、宗教の基礎をふまえつつ、社会活動に没頭したひとりの先達であった、と言うことができるとおもいます。




    (次回に続く)