「『出会いと対話の時代』がはじまる」(下)(2000年「部落問題全国研究集会」)


宮崎潤二さんの作品「自由歩道でアコーデオンを弾く男・モスクワにて」



出会いと対話の時代」がはじまる(下


   一開かれた宗教界ヘ―


      部落問題全国研究集会 2000年11月11日


        三 「出会いと対話」がはじまる


 この二〇年間に及ぶ「同宗連」傘下での宗教界の解放同盟への「連帯・迎合」のかたちは今も継続中ですが、宗教界の本来のいのちは、真理・真実にのみ至誠を尽くすことを潔しとして、国家や世俗の諸権威に対して従属することを嫌うところにあります。


 その点で言えば、解放同盟による「差別糾弾」を経て結成された「同宗連」なるものに、どれだけの人々が心からの信頼と支持を持っているか、疑わしいものがあります。


 逆に、宗教教団が抱え込んでしまっている現状に対して、強い危惧と疑念を抱いているのが現状でしょう。その証拠が、一九九八年四月から進められている「真宗フリートーク」に寄せられている無数の声だと思います。


 解放同盟とは異なって「対話運動」をすすめる全解連が、三年前に浄土真宗本願寺派大谷派を訪ね「部落問題に関する懇談会の申し入れ」をおこなったことはよく知られています。そしてその「懇談会」の申し出に対して両派とも「見合わせ」の結論で「対話」は実現しませんでした。その後の詳しい経過などは、宗教対策部の担当の方からお聞きできると思います。いずれにしましても、「懇談会拒否」「対話拒否」ということは、「教団の自主性」の欠如と自信のなさの表れです。


 当然のことですが、「対話」や「懇談」は強制してするものではありません。それなりの関係を結びながら、お互いに「開かれた対話」が可能になって行くのです。その意味では、「時の熟するのを待つ」ことも私たちには必要です。


 特定の宗教教団と特定の運動団体とが公式に「懇談」できるのは、見方によれば、相互の間の対立や溝を時をかけて埋めて行く努力ぬきには実現して行きません。そのように考えれば、その一歩がいま始まったばかりだとも考えられます。向こうの今の実情を忖度して、次ぎの機会をじっと持たせてもらうときがいまでもあるのでしょう。


 いずれにしても、状況は固定的ではなく動いています。いつ事態は好転して、立場の異なるもの同士が「出会いと対話」をはじめるか分かりません。 教団の内部にも、私たちが知らないだけで、住職の方々も、また個々の門徒の皆さんも、いま自らの独自の主張をもっておられる方々ばかりです。特に部落問題に関する見方は、世間一般と大差なく「常識」をもった人々であるに違いありません。


 最近の身近な経験をあげて見ましても、例えば前記のブックレット「『対話の時代』のはじまり」は、もともと私に所属するキリスト教関係の仲間の皆さんに近況報告のつもりで謹呈させていただいたのですが、思いがけないことにこれは仏教関係の皆さんにも興味を持って頂いて、ある大谷派の寺院関係の方々が毎月読書会を開いておられて、そこで長期間、いまだにこれをテキストにして話し合っておられます。読書会の毎月の会報を送って頂いていますが、見方の違いを超えて互いに学びあうよろこびを感じています。


 また、大谷派の方々とは別に浄土真宗本願寺派の方々で、この夏ある地方の「組」の正式な「同朋教学研修会」に招かれて「宗教者と部落問題」についてお話をする機会がありました。私にとって初めての経験でしたが、住職の方々と二日間たっぷりと語り合いました。部落問題のことはもちろんですが、宗教者としてのあり方に関わって多くのことを学ばせていただきました。


 教団とか教区の段階までは、教団政治上の固い対応があるのかもしれませんが、今回研修会で出会った住職の方々は、皆さんきわめてオープンで、部落問題についても一人一人ご自分の考えを出し合われ、とても感じのいい研修会でした。これまで同教団の教区事務所の方々のどこかこわばった硬い感じとは全く違ったものを感じて安堵するとともに、宗教者の健康なすがたの一端を見る思いがいたしました。


 なぜ私がこの研修会に招かれることになったのかをたずねて見ましたら、なんと四年前の北九州市で開催されたこの分科会で報告した私の基調提案を読まれて興味を示され、直接会って自由に対話をして見たいと思われたとか。四年前の集会は、本願寺派の「対話拒否」をうけた後の集会でした。あれから三年も経ているのですから、実際はこの教団もいま大きく変わりつつあるのかもしれません。


 物事はどこからでも変化して行きます。上からも下からも、横からも斜めからも。あれかこれかではなく、あれもこれもが大事なようです。私の今回の経験は、大変勇気付けられるものでした。


 個々の住職の方々は、門徒の皆さんはもちろん、地域の皆さんの言葉を充分に受け止めることの出来る方々であることを確かめることが出来ました。まず、この日々暮らしている地域の身近なところで「出会いと対話」を楽しむことが出来ればいいと願っています。


               おわりに


 このように、新しい「出会いと対話」は、確実にはじまりつつあります。ブックレットの「『対話の時代』のはじまり」を書き上げたときは、二一世紀を前に宗教界も「対話の時代」がはじまってほしいという、強い期待をこめた呼びかけでした。


 部落問題の解決はいま最終段階にきているという現況報告も含めて、宗教界に少しでも『爽やかな風』を持ち込みたいという願いとともに、ことばだけは「人権の世紀」などと声高に叫ばれる割に、肝心な「人権理解」が不十分ではないかといった、私なりの「問題提起」をして見たくて書き上げました。


 それがいま、うれしいことに「出会いと対話の時代」が、こうしてはじまりつつあります。新しい二一世紀を目前にして、私も一人の宗教者として、改めて「出会いと対話」を楽しむ取り組みをして行きたいと考えています。


 今年一一月には、私たちの兵庫県下でも部落問題の自主的な地域研究集会が開催されますが、そのひとつの東播研究集会には、浄土真宗本願寺派の布教師でこの分科会ではお馴染みの大原光夫師が記念講演をしてくださることになっています。ここにきて、歴史も大きく動いていくのでしょう。