「『出会いと対話の時代』がはじまる」(中)(2000年「部落問題全国研究集会」)


宮崎潤二さんの作品「エルミタージュ美術館



出会いと対話の時代」がはじまる(中)


   開かれた宗教界ヘ―


        部落問題研究集会 2000年11月11日



            二 宗教は面白い


 さらに個人的なことを申し上げることになりますが、あの大地震から早くも六年目が近づいています。大切な人を失い、恐ろしい経験を強いられましたが、またあの大震災は私たちに予期しない新しい発見をさせてくれました。


 私たちの場合、あの時一四階建ての高層住宅で生活していましたのでいのちは助かりましたが、建物は大きく痛み全壊となりました。避難先で二年目の正月を過ごして、そこで「『対話の時代』のはじまり一宗教・人権・部落問題」という小さなブックレットを書き上げました。その中の一つの章で「宗教は面白い」というタイトルを入れました。


 宗教については多様な見方がありますが、私がここで「宗教は面白い」というのは、単に「宗教が面白い」のではありません。「オウム真理教」などは例外としても、一般に近代の人間であれば、「宗教はアヘンだ」などとはじめから決め付けないまでも、「自分は宗教とは無縁な人間である」と自任している人々も少なくありません。まして宗教が部落問題の解決にとって積極的な役割を担うものだとは決して見ることはできないとする見方が、これまで一般的でもありました。


 近現代史の中では「社会改革と宗教」の関係は、大きく二つの見方に分かれています。 一つは、宗教は社会変革を阻害するものであり、歴史の進歩は「反宗教・無宗教」の方向に動くとする見方です。フランス革命ロシア革命はその流れで、歴史的に見てもそれはもっともな見方です。しかし他方には、宗教は社会変革を促進するものであり、歴史の進歩に積極的に貢献するものであるという見方があります。これはイギリス・アメリカなどのアングロ・サクソンの宗教性の流れです。


 この問題は、じっくりと自分自身のこととして考え抜かなければならない重要な課題ですが、私自身は宗教者のひとりですから、宗教の陥る否定的な側面はそれとして了解しつつも、本来の宗教の創造的で積極的な側面に強い共感を抱いてきました。


 この点についての私自身の見方は、単純明快です。単なる「宗教」は人間を狭い宗教もしくは宗教教団に閉じ込め、社会の発展にとっても反動的な役割しか担うことは出来ないけれど、それは宗教の虚偽形態であって、宗教が宗教として成立するためには、必ず人間が作り上げたのではない「確かな基礎」に裏打ちされたものでなければならないと思っています。その意味で、宗教が成り立つ「基礎」、つまり「宗教の基礎」が大切で、そこが「面白い」と思うのです。このあたりの消息をブックレットに展開して見ました。


 金子みすずという童謡詩人が近年よく話題に上ります。昭和五年二六才でなくなり、没後七〇年も経て、多くの書店で「みすずコーナー」が設けられています。最もよく知られた作品に、ご存知の『星とたんぽぽ』があります。


 「青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だアまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」


 この「見えぬけれどもある」と言われるもの、これを「基礎」と仮に呼ばせていただきますが、この「基礎」はいわゆる特定の「宗教教団」や「宗教者」だけの手中にあるのではなく、「万人のもとに」に等しく、絶対無条件にすえられている「土台」であり「支え」であって、そこを詩人の眼で歌っているのです。


 ところでこれまで、この「宗教と部落問題」の分科会でもたびたび基調報告をしてこられた加藤西郷先生は、すでに二十年以上も前から「宗教の果たす積極的な機能」に注目してこられました。特に、「ドーン計画」の町で知られる和歌山県吉備町における寺院と宗教の役割の重要性について地道に研究を継続してこられました。


 その関連でみても、特に伝統仏教の場合、数多くの消極的・否定的な諸問題を抱え込んできたことも否めませんが、歴史的に受け継がれてきた信仰理解や教学・教義の吟味、さらには教団組織や諸伝統の見直し・刷新などは、それぞれの関係者が常に新たに自己検討を重ねてまいりました。


 恐らくどの場合も、やはり宗教そのものの「基礎」に立ち返って、そこから改められ、新しくされていくダイナミズム(動態)が働いていると思います。「基礎」から変革が促されているように思います。


 その意味では、いつの時代でも「基礎」を日々体現しているのは、個々の私たち一人一人です。先の「新年の小話」でもお話しましたが、人間はこの世界にひとりぽつんと孤立して存在しているのではありません。はじめから「関係的な存在」として生きています。 確かな・揺るぐことのない「基礎」の上で、それぞれの天賦の持ち味を生かすべく促され、激励され、温かく見守られている存在です。


 この「罪悪深重煩悩具足」の私が、なぜか不思議なことに「弥陀の本願に助けられて」いる。この幸いな祝福のかけられていない人はひとりもいない、この私にさえも! という「驚き」が「発見のよろこび」となって、各自のこころとからだに溢れます。それは、仏教でも禅仏教の場合「本来の自己」「無相の自己」の悟りが大切にされますが、その消息は決して別のものではなかろうと思います。


 これまでのこの分科会の論議の中で「他力」か「自力」かといった質問も出されていましたが、「出会いと対話」がはじまる上で大切なことは、いつも真理・真実は自分の手中に握り締めることは出来ないという基本的な「慎み」を自覚できることです。握り締めたと思ったとたんに、無用の「ひとりよがり」がはじまるといわれます。


 仏教者の中で特に心引かれる方として、私には鈴木大拙良寛禅師があります。良寛はご存知のように「こだわりをすて、日々を楽しむ」先達の一人として知られています。


 この言葉は、今年新潟で国際シンポジウム「良寛没後一七〇年祭」が開かれて、当日芥川賞を受賞された作家の新井満さんのものです。禅の良寛浄土真宗の墓に眠っているのも面白いことです。


 鈴水大拙さんは、学生時代に一度お話を聞いて以来のファンです。大拙の面白さについてはブックレットで触れましたのでここでは触れませんが、東洋と西洋、仏教とキリスト教の「出会いと対話」を生涯の仕事とし楽しみとした大先輩です。


 先ほど、ひとははじめから「関係的な存在」であることを申しましたが、関係の基軸には、まず「佛凡一体」「神人一体」という「一人性・個人性」といわれる専ら狭い意味での宗教が関わる領域と、夫婦・親子・友人といった「対人性」の領域と、そして会社・地域・世界といった「社会性・共同性」といわれる領域の、扇の要(なかめ)のような「基礎」がおかれているのだと見ることが出来ます。先の「軽い小話」で少しふれたとおりです。


 いずれにせよ、私たちにとって宗教教団云々の前に、「見えないけれどもあるんだよ」といわれる「確かな基礎」の上で、だれでもひとしく「喜んで生きる」ことが可能であるということです。


 今年のオリンピックのマラソンで優勝した高橋尚子選手の笑顔は素敵でしたが、小出義雄監督の言葉と笑顔も素晴らしいものでした。監督は言います。


「いやな顔をしてやっちゃいかん。楽しんでやれ。ニコニコしている顔に出会うと、こっちまでうれしくなる」と。


   (次回に続く)