「兵庫人権問題研究所の創立の頃の思い出など」(2005年、『慰労の会』)


宮崎潤二さんの作品「ペテルブルグ(レーニングラード)の冬宮と宮殿広場」



        2005年6月25日

 
  兵庫人権問題研究所退任「慰労の会


 「慰労の会」ありがとうございます。「研究所の思い出」を話すようにもとめられましたが、「思い出」というのには、まだもうひとつの感がいたしましたが、お申し付けどおりに、本日の御礼のことばとして、短い「思い出」を申し上げます。


          研究所創立の頃の思い出


 いまはむまし1968年の表から、思うところあって、ゴムエ場の雑役として汗を流す、新しい生活をはじめました。


 翌年、同和対策の持別措置法も出来、神戸においても本格的に、問題解決の取り組みが始まろうとしていました。神戸の部落解放運動も、生活に根ざした切実な要望を組織して、動き始めたときでした。


 1971年には、神戸市に対して「同和地区実態調査推進協議会」を設置させ、神戸市内全同和地区の全所帯調査が実施されました。その調査の実質的な責任を担われたのが杉之原先生でした。


 翌1972年には、この調査の膨大な報告書がまとめられ、神戸市の「同和対策協議会」が設置されました。この年の暮れから翌1973年5月までかけて、集中的な議論が積み重ねられ、あの総合的で詳細な「神戸市同和対策長期計画」が策定されました。


 「実態調査」の準備段階から杉之原先生とご相談は始まっていたのですが、この「長期計画」の検討作業を続ける中、神戸の解放運動の中から「神戸にも独立した民間の調査研究機関の設置」の必要性を自覚しはじめます。


 実態調査のときも研究機関の設立に関しても、神戸の運動の推進役となっていたのは、西脇忠之さんてしたが、そのときも杉之原先生と三宮の喫茶店琥珀」でご相談したり、京都の研究所で出かけたりして、設立準備が進みました。


 神戸市との継続的な研究委託の交渉も実り、地元の神戸市同和促進協議会の協力も得て、所長に杉之原先生、事務局長に平井晃さんの体制で、1974年春に「神戸部落問題研究所」が設立されました。


 小林先生・阿部先生・落合先生・斎藤先生・杉尾先生など熱心な研究者に恵まれ、八鹿高校事件の起こる年の未のことですので、部落問題をめぐる基本問題を確かめながら、解放運動や同和行政、同和教育の批判的検討作業に、力を合わせることが出来ました。


 私自身は、1968年春から7年間、ゴムエ場で働きながら、町の自治会や解放運動にかかわりを持ってきましたが、ゴムエ場の雑役からロールエという職人になったころ、1974年に研究所は、長田公民館で設立されました。


 私はゴムエ場で仕事を続けるつもりでいましたが、きついぎっくり腰になり、やむなく退職をして、神戸市の社会教育課の嘱託として、長田公民館で働きながら、研究所の常務理事をさせていただいていました。


 そして平井さんの退任後、1977の4月より本年3月まで、杉之原理事長のもとで、ずっと変わらずに長期間にわたり、この職務に専念させていただきました。この間、研究所の運営は平坦ではありませんでしたが、理事長はじめ運動関係の皆さんのお支えもあって、研究所の裏方を勤めさせていただきました。


 長い間の職務を解かれて「新いい生活」が始まって、いま3ヶ月足らずが経過いたしました。親しい方への打ち明け話のようなことですが、これまでひとつの実験として、「牧師を職業としない」生き方をしてみたいという企図をもって、青春時代からこの場所で歩み続けました。この実験も、やり始めてみると中々味なものでしだ。一度はじめたらやめられないものがいろいろとありますが、これまでの37年間の「アングラ牧師」の歩みを、これからも、ゆっくりと、続けていきたいと思っています。


 この7月2日に明治学院大学賀川豊彦学会というのがあり、「部落問題の解決と賀川豊彦」という報告を求められています。今その最終的な準備に打ち込んでいるところです。


 本当に長期間、杉之原先生はじめ研究所の皆さんの、暖かい御支えとご協力有難うございました。


 最後になりましたが、これまで「継続はよいことだ」と考え、微力を注いできました。いくらかの余力を残しての法人解散の道を探していましたが、このたび、体制も一新され、「継続」を決断していただいたことに対して、安堵の思いもいたします。


 研究所の法人運営は決て容易ではないと思いますが、21世紀の時代状況に即応した「新しさ」を、調査研究活動の中に盛り込みながら、地道な取り組みが継続できることを、心より期待しています。


     2005年6月25日
                       鳥 飼 慶 陽