「宗教と部落問題ー実りある”対話・交流活動”のために」(1984年、『月刊部落問題』)


宮崎潤二さんお作品「マオリの民族舞踊・ロトルア市にて」



  宗教と部落問題

 
    ―実りある″対話・交流活動”のために―


      (1984年1月『月刊部落問題』)


 一九八四年の宗教界も「部落問題フィーバー」は持続していく雲行きである。
今日の宗教界は、大なり小なり内部に分裂的な様相をふかめながら、克服すべき多くの諸課題と取りぐんでいる。しかし、それらはいずれも難問ばかりであって、どこからどのように、どこにむかって変革・革新され、ひとつにされていくのか、確たる基礎も目標も方法も定まらないまま、当面する諸問題に追われている、というのが現状のようにおもわれる。


 しかも、こうした宗教界にむけて、部落問題解決への正しい展望も確信も持てずに、たんなる。”糾弾”と”告発”を基調とする一部運動団体からの“宗教界の差別体質”の追及がすすみ、さらにそれと安易に同調する宗教者の動きも加わって、ますます事態は不透明の度をふかめているようである。


 そして、右のような宗教界の現状にたいして、宗教関係者のなかからも、部落解放同盟の運動のあり方そのものへの疑問や批判をもつ人々、さらに教団の無定見ともいえる対応のしかたに憂慮を覚え、それに同調できずにいる人々は、けっして少なくはないのである。


 周知のとおり、全解連はちょうど二年前に「“差別戒名″など宗教界の当面する諸課題についての全解連の態度」を公表し、「宗教と部落問題に関する自由な発言や討論を保障する対話運動を、多面的におこすこと」を提言した。そしてこれは、そのご宗教界に大きな影響を与えつづけ、すでに各地で”対話運動”が精力的につみかさねられている。


 昨年夏、神戸で聞かれた第12回部落問題全国研究集会では。「宗教と部落問題」の分科会が設けられ盛況を呈したことも、その成果のあらわれであろう。また昨年の秋に刊行された『部落問題研究』77輯では、「『宗教と部落問題』をめぐる諸問題」と題する成沢栄寿論文が巻題におかれ、研究活動の分野でも、意欲的な労作が登場しはじめている。したがって、これからの「部落問題フィーバー」は、これまでのそれとは性格のちがった新しい展開をみせはじめるものとおもわれる。


 もちろん、こうした新しい展開にたいして、「宗教界の取りくみの足をひっぱるもの」だとする的はずれの再批判もきかれるようになっている。これからの私たちの取りくみは、これまでのゆがめられた宗教界の現状をただしていくという、たんなる消極的なものではなく、宗教界にとっても、また部落解放運動にとっても、実りある成果をのこす積極的なものである。


 そのためにも、いっそう地道に「自由な発言や討論を保障する対話運動を、多面的におこすこと」が必要であり、なかでも関係者の相互理解と相互批判、それにたゆまぬ研讃が期待されているのである。


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 ところで、「対話運動を、多面的におこす」といわれるときの「多面的」の内容を、ここでより明晰に確かめておくことも有益なことではなかろうか。
 これまで「宗教と部落問題」をめぐる議論のほとんどは、特定の宗教教団と運動団体とのあいだのこととしてすすめられてきた。とりわけ。“糾弾″かおこなわれる場合は、そこに集中してきたともいえる。しかもそれは「自由な発言や討論を保障する」”対話“といったものとは異質のものであった。

 
 これにたいして、全解連のすすめる“多面的的な対話運動”というものは、すでに各地で実践されているものでも知れるように、もっと“草の根″的な、日常的レベルを視野に入れた”対話運動″をめざしている。


 『部落解放』12月号で、ある「解同」と閉係のふかい住職の方の「運動への要望」として、次のような発言がのせられていたので紹介しておこう。


 《………私も運動側へお願いしたいんですが、差別戒名の問題などで、中央交渉まかせ、組織まかせではだめだということです。運動のあり方が、組織を上に、本部にあげていく、解放同盟の本部から各宗派の本部にいってそこからおりてくる、というかたちになっています。運動体としてはこれは正しい姿でしょうが、これに加えて、一人の檀家として、一人の門徒として直接お坊さんと対話をすることが必要だと思います。お互いに本部まかせではなく、もっとわれわれも泥まみれにならないといかんし、運動側も、日常の、それぞれの現場で、「お坊さん、さっきのお経はどんな意味があるんですか」と問い直していくというのが、運動の第一歩になると思います。・・・》


 私たちの“対話運動”の多面的な取りくみのはじめは、むしろこのもっとも身近かな足もとのところですすめられていくものである。そのことをとおして、部落解放運動もごく自然に、しかも実質的なひろがりをもつことにもなり、同時に宗教界そのものの変革のためにも、大いに幸いすることともなるのである。


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 ところで、ふつう「宗教」は、現代人にとって何か特別のこと、あるいは特別のひとのことであって、私たち自身とは直接かかわりのないもののようにみなされる場合が少なくない。そして「宗教者」というときも、僧職にある職業的宗教家をさすことが多く、特定の宗教教団をすぐ念頭においてしまうのである。


 しかし、もともと宗教とは、一人ひとりの個人・自己自身と直接かかかることであって、日常的・生活的なことである。その意味では、既成の諸宗教を拒否する反宗教もしくは無宗教的立場に立つ場合も、そのひとつの態度であって、ひとつの生き方・感じ方、思想・信条とべつのことではないのである。


 また、宗教者という場合も、個々の信徒(在家信徒)を基礎的な構成単位として、はじめて宗教教団が成り立っていることも見落されてはならない。こうした、いわばあたりまえのことを、ハッキリと視界に入れて、これからの“対話運動”をすすめることは、おもいのほか重要なことではないかと、私にはおもわれる。


 たとえば、加藤西郷氏らが、吉備町の「ドーン計画」推進にあたって、住民の主体形成に果した「宗教の役割と意義」について注目されるのも、同様の問題関心がおかれているからであろう。


 そこでの宗教は、個々の住民の生き方や価値観に新しい創造的な刺激をよびさますものであり、そうした研究をとおして、あらためて個々人の生活意欲や主体形成、あるいは地域の新しい社会関係の成立過程を検討し明らかにしていくことは、興味深いことだといわねばならない。


 なぜなら、宗教は、人間をねむりこませ逃避の場に転落する場介がほとんどであるとはいえ、そのほんらいの機能は、人間の解放と自由・平等の足場を見出して、そのたしかな促しの力に照応して、共に生きていくところにこそ、宗教者たる真価はあるからである。この点の見きわめがあいまいのまま、ただ「宗教」を“告発・糾弾”するだけだとすれば、そこからの新しい積極的なものは、とうてい期待すべくもないであろう。


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 以上、私たちの“対話運動”は、“草の根″的に多面的な場面ですすめられることの大切さをみてきた。さらに付言しておけば、私たちが自主的・自発的に対話・交流をすすめていく場として、ひとつは各教団内部の場づくりがあり、もひとつは解放運動内部の場づくりがある。


 いずれもすでにこうした場はつくられてきてはいるけれども、さらにこんご、宗教者自身の「宗教と部落問題」をめぐる対話・交流・研究活動は、いっそう活発となるにちがいない。


 数年前から「同宗連」といった組織化がすすんだり、各教団内に「推進本部」とか「協議会」とかが設置されているが、“早の根″のこうした自主的・自発的な対話・交流・研究の場が地道に持続することがなければ、それらは形式的な代行機関に終始せざるをえないであろう。


 また、部落解放運動のこととしてみても、解放運動自体がもともと幅広い多様性に富んだ住民運動であるが、こうした“対話・交流活動”は、解放運動そのものの新しい展開にも大いに寄与するものとなるであろう。


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 兵庫部落問題研究所でも、これまで数回「宗教と部落問題」を主題とした研究会を開き、またその他の機会でも自由な討論を重ねてきている。


 本誌65号に杉尾敏明氏が「宗教と部落問題」―宗教に対する『全解連の態度』に関する若干の疑問」を発表し、そのご67号で亀田順一氏の反論「信教の自由と部落問題−‐杉尾氏の疑問に答える」がおこなわれるなどした。


 相互理解と相互批判が“対話と交流″のなかでふかめられてゆくことは、多くの困難をともなうものであるが、たんなる自己主張や自己絶対化を無用とする「自由の感覚」――これこそほんらいの宗教への「基礎感覚」とでもよべるもの――がいきづくとき、”新しい対話と交流″がはじまるのである。(こうした点のいくらかの吟味は『部落問題論究』8号所収の拙稿「宗教の基礎―部落解放論とかかわって」で展開した。)


 こんごとも、他の諸分野に劣らず、「宗教と部落問題」をめぐる分野でも、実りある、“対話・交流活動”精力的に取り組まれていくことを重ねて期待して、1984年の課題の、ひとつの提言としておきたい。 
            

                        (兵庫部落問題研究所)