「『出会い』のなかで学んだこと」(下)(1989年、阪神研究集会)


宮崎潤二さんの作品「マオリの民族舞踊:ロトルア市にて」



  出会い」のなかで学んだこと(下)


        1989年10月15日 阪神研究集会


    (前回の続き)


           2 「自由と平等」は確かな事実


 わたしは、解放運動の宝は、現実の決して平等ではない差別のなかで、「自由と平等」の確かな事実を「発見」したところにあると思います。


 人間の尊厳性を自分自身のなかに見出し、お互いのなかに、社会のなかに、世界のなかに見出し、その実現のために立ち上がることができたのだと思います。


 はじめ、あの「水平社宣言」や「善き日のために」などに書き刻まれた「精神」は、そうした「発見」の喜びがあふれたものでした。



       「水平運動創立者」らの「発見」の歓び


 もちろん、彼らにも多くのあいまいを残し、平等の事実をしっかり踏まえて運動を展開することが出来たわけではありません。


 以前に「宣言」批判などという大それたこともさせていただきますたが、考え方のうえでも、実際の運動の進め方のうえでも、克服しなければならない大きな山や、今日まで幾度も越えてきたわけです。



           ・詩人丸岡忠雄の世界


 丸岡さんの話をしはじめますと、何時間か必要になってきますが、丸岡さんのことをご存知無い方もおられますので、少し彼の作品を紹介させていただきます。


 丸岡さんは、先の「宣言」の作者・西光とよく似ていて、ポスト西光、西光二世ジュニア、とでもいってよいかたで、惜しくも数年前に56才で忽然とお亡くなりになった、我々の大事な先達です。


 西光の青年期は大正時代でしたが、丸岡は太平洋戦争のさなかに熊本で陸軍幼年学校で学び、戦後ほんのしばらくの間小学校の教師をして、結核で長く療養を強いられるのですが、彼は青年期の二十歳前から文学運動をすすめ、俳句をつくり詩を発表します。


 彼は、ふるさとを離れて幼年学校で学ぶ頃から、「部落」に苦悩します。そうして、ようやく戦後山口師範で学んだときに、初めて潤間教授から、部落の成り立ちと歴史を学び、本当のことを知る喜びを知るのです。


 そうして、それからさらに10年ののちに「部落」を詩で表現し始めるのです。そしてさらにその10年後に『部落』という詩集を発表し、私はそれから10年後、詩集『ふるさと』を研究所で本に仕上げるころから親しく出会わせていただきました。


 そして、丸岡さんのお母さん・おみねさんと言う方ですが、そのお母さんを歌った未完の作品「おみね伝」などを収めた、丸岡さんの遺作『詩集・続ふるさと』を手掛けさせていただきました。


 丸岡忠雄さんの作品は、誰にでもよく分かるものばかりで、ご自分とご家族のこと、ふたりの子供、妻、母、解放運動で出会ったセツウ、多くの友達、などを歌い続けました。


 そして、彼の周辺には、若者が沢山集まり、部落の垣根など全く無い、新しい世界を作り出していきました。そして、丸岡さんの周辺では、次々と垣根を越えた新しいカップルが生れて行きました。


 遺作となった「嬉しい日に」も、その門出に当たってのはなむけの歌でした。丸岡さんのところには、広い分野の研究者や文化人、−一永六輔小沢昭一高石ともや、−−「らくだ」という詩人仲間などなど・・・。


 晩年の丸岡さんは、腐敗した解放運動にたいして厳しい態度を貫かれましたが、一一作品「土下座」など――一貫した丸岡さんの厳しいまなこは、常にご自身の澄んだ「瞳」にありました。


 丸岡さんの作品「瞳」は、『ふるさと』の最初に収めさせていただいたもの
で、作品の基調を成すものです。


         いのちをみつめて
         うたを
         こぽせ 

         なみだではない
         うたをこぽすんだ
         ひとみよ

 
 という平仮名ばかりの歌です。


 丸岡さんの生活態度が、そういうものだったようです。亡くなるまえの作業ズボンに親鸞の『嘆異抄』を入れておられ、モーツァルトがとてもお好きだったようです。


 初期の作品に「四十番ト短調」というタイトルのものがあり、最初の詩集が『ト短調』でした。モーツァルトは、ご存知のように、何処となく明るいトーンで貫かれています。短調でも、単なる短調ではありません。


 丸岡さんは、四年あまり前に亡くなりましたが、その生き方や物の考え方は、まさに我々の今歩み出している「新しい世界」を先取りするようなものでした。



          3 新しい時代を共に生きる


 わたしは、何時の時代でも、我々の生き方の土台はシッカリと据えられているものだと思います。私達がこれから新しく作るものではなくて、身近なところにはじめからチャンとあるものです。


 そうした、確かな土台・基盤・支えに立ち返り、その足場にシッカリとたって、そこからわたしたちの「新しい歩み」をともに始めることができるのだと思います。


 今、わたしたちは、部落差別との関連では、現実のこととして「垣根のない」新しい時代を迎えようとしています。


 「部落」とか「同和地区」とかいうことは、過去のこととして、「かつて同和地区と呼ばれていた」ということとして、受け止める時代を迎えているわけです。


 ですから、わたしたちが「自立と自治」、或は「共同と連帯」という場合も、かつての「部落」と「一般」という、また「差別」と「被差別」という枠組のなかで考えることから、新しい一歩を踏み出しているのです。


 まだまだ、おそらく古い枠組でものを考え、「同和教育」や「同和行政」や「解放運動」が続けられていくに違いありません。


 しかし、わたしたちは、少なくとも私達自身は、「部落」から正しく解放されていなければなりませんし、そこから、実は本当の「解放の道」は現実のものになっていくのだと思うのです。



          「自立と自治」「共同と連帯」


 そういう意味で、解放運動もいま新しい模索と冒険の時代に入っています。


 杉之原先生が昨年の秋から、法が無くなった後の「運動」「行政」「教育」のあり方について大胆な問題提起をされ、現在真剣な討議が進められています。


 最初の討議のときに、月刊部落問題で座談会を組んで、杉之原提言をめぐって話し合いました。先生は、法以後は「同和」を冠する「行政」も「教育」もすべきではないという立場ですが、私はそのとき悪乗りをして、「行政」と「教育」がそうであるのならば、論理の一貫性からして当然「運動」もそのあり方が基本的に新しいものにならなければならないのではないか、というようなことを発言して、少し過激すぎるといって批判をいだだきました。


 しかし、本当にどの分野であれ、その基本=基調が新しくなるのでなければ、問題の真の解決にはならないと思います。


 以前に『部落解放の基調一一宗教と部落問題』という小さな本をつくりましたが、「宗教」の世界も、解放運動の歪みを反映して無用の混乱が続けられています。


 これらをその基礎から、ねっこから新しくしていく仕事は、私達にとって、実にやりがいのある楽しい仕事です。これからさらにじっくりと腰を落ち着けて、粘り強く取り組んでいきたいと思います。


 それは、これまで積み上げてきた成果が生かされていくことですし、これまでとは違った、また新しい状況を作り出していくことになると考えます。


 神戸などでは、そうした新しい試みとしていま、「部落」のわくをこえた「共同」の取り組みが、仕事の分野で、教育の分野で、福祉の分野で、町づくりの分野で、はじまろうとしています。


 新しい酒には新しい革袋を! ということばがありますが、われわれも、新しい酒を飲み、新しい革袋を、ともにつくる楽しさを、これから分かち合いたいと思うのです。