「『出会い』のなかで学んだこと」(上)(1989年、阪神研究集会)


宮崎潤二さんの作品「ニュージーランドマオリ族文化の中心ロトルア市にて」



  出会い」のなかで学んだこと(上)


        1989年10月15日 阪神研究集会


 昨年は神戸の研究集会における分科会で、柄にもなくわたしにも話をするように求められ、亀田委員長の前座の役目を果たさせていただきました。そのときは小さな『賀川豊彦と現代』という本を出版したこともあって、それにまつわるあれこれのことを自由に話させてもらいました。そして今回も、同じく亀田委員長と杉島先生の前座をつとめるように求められています。


 今回は短い時間ですので、標題のような題を付けさせていただいて、新しい時代を迎えている今日、わたしたちにとって大切に思われるいくつかのことを、できるだけ包み隠さず率直に、打明け話のようなことをお話してみたいと考えています。もともと個人的なことを、こうした場所でお話することはあまり好みませんが、しかし今回は、専ら個人的な経験と「出会い」のなかで学んだことを、自由に述べさせていただくことにいたします。


        1 人間(もの)に垣根はない

 
        「ハク敵論」と「ハクユダ論」をこえる  


 わたしはまだ過去を振り返る年ではありませんが、それでもわたしにとって「青春時代」というものもありました。高校時代に、牧師を夢見て大学に行き、6年間人並みに苦労もして卒業し、見習い牧師として4年間、「教会とは何か」「この時代に信じて生きるとはどう言うことか」といった問を尋ねて過ごしました。


 牧師は人に言葉をもって説教することが第一の仕事です。教会に責任をもち説教するこのわたし自身が先ずさきに新しくされるのでなければ、本当のところ空しいことです。


 それで、28才のときに、正式な牧師になりました。(わたしの連れ合いも一緒に)丁度その頃、既にそのまえからわたしにとって、或る秘な「目覚め」がありました。宗教について、信仰について、人間の生き方について、新しい・喜ばしい「発見」がありました。


 ですから、正式に牧師になるまえから、牧師になったら既成の教会の牧師にはならず、新しい牧師の生き方を始めることを考えていました。


 牧師試験の面接のときに、将来のことを尋ねられて、率直にそうしたことを話しますと、強い関心をしめしつつも、「惜しまれ」たりいたしました。実際に、からだもそう健康でもなく妻子を抱えて肉体労働を始めることには、反対も少なくありませんでした。


 しかし、わたしたちの「志」は、正式な形で認められ、番町地区のなかの六畳一間の住宅で、ゴムエ員としての生活がスタートしました。


 当時は、それまでの住民運動を背景に、自前の解放運動がようやく運動らしく形を成しつつあった頃です。1968年ですので、同和対策の答申が出されて、特別措置法を強く要求していた頃です。


 ですから、地域では西脇さんたちが仕事保障のために自動車の免許を取得する組織や、借金苦から脱して生活の自立を目指す組合作りが始められていまし
た。


 わたしは、はじめから解放運動をするために歩み始めたわけではありませんが、極自然に西脇さんたちと、わたし自身のこととして、地域の自治会作りや住宅建設のことなど、以後ずっと今日まで、一人の住民として、苦労を共にして、楽しく過ごして参りました。


 「楽しい」などというと誤解をまねきます。二〇年ほど前にテレビで「ドキュメンタリー青春」というものがあって、一週間ほど番町やゴムエ場やわたしたちの家まで入ってきての取材がありました。


 そのときに、西脇さんと西田さん、そしてわたしたちとで話し合う場面を撮りました。わたしが、うかつにも「ゴムエ場で職場の人と一緒に汗を流し、地域の課題を一緒に担えることは楽しい」などと発言して、西田さんから強い反論を頂いたことがあります。一一ゴム工場の仕事のどこが楽しい! 一生こうして生きねばならないとすれば気が狂いそうだ! あんたなんか信用できん!


 当時、「ハク敵」論ということが言われていました。現在では「ハク」などということもすっかり死語になりましたが、部落以外のものをさして「ハク」といわれて、部落にとって外のものは、いつも裏切るものであり信用できない「敵」だという受け止め方が残っていました。


 そして、そういわれてしまえば、外のものは、はじめから信用されない、そしていつかは裏切って離れていってしまうものでしかない、という相手として存在するしかなくなってきます。


 イエスの12弟子の一人にイスカリオテのユダという人がいました。彼は、イエスを裏切り、当時のローマの権力に銀貨30枚で売り飛ばし、後に自殺したのですが・・・。


 確かに、歴史的なこれまでの経験的な事実からすれば、そうした「差別の壁」が存在して、敵か味方かを見分けて、その「壁」はあたかも絶対的なもののように、「壁」を絶対化する傾きは、常に付きまとう落とし穴です。


 しかし、そうした意識をお互いに持ち続けることは、どこか病的で、酔っ払ってるようなものです。「解放教育」には、どこかそういうところがあって、「部落」とか「部落民」ということが不当に運命的にとらえられてしまいがちです。


 これを「部落第一主義」とか「部落排外主義」とよびますが、そういう立場は、残念ながら未だ自ら「部落」から解放されていないのです。


 わたしにとって、大変幸いなことだったのは、当時の部落解放運動をになっていた人達が、病的な酔っ払いの人達ではなくて、「部落」から解放された人達でした。


 ですから、持たなくてもよい「壁」意識、固定的な「差別意識」、「罪意識」からは自由であることができました。


 あくまでも、その町に住む一人の住民として、何の垣根もなく暮すことのできる関係が初めからつくれたことは、とてもうれしいことでした。


 しかも、私自身のこととしても、当時自動車の運転免許をもっていませんでしたし、「車友会」の一員として運動に加わり、一緒に識字をやったり、住宅問題も私の住んでいたところが不当にも指定地区から排除されていて、地区に組み込ませるために、それなりの努力をしたり、運動団体の一員として、長い間「会計」担当を受け持ち、楽しい日々を過ごすことができました。


 部落解放運動の出発点は、たしかに見える形では、現実に「差別」の事実があり、この「差別」−一仕事や教育や住環境やー−をなくしていくということにあるわけですが、我々には、もともと差別の垣根などはないのだ! これまでの日本の社会の歴史的なマイナスの傷跡として「部落差別」は残されてきているけれども、我々は、お互いに何の垣根も「壁」もないのだ! そういう「事実」をハッキリと気付かされるところに、「解放」の出発点があるのだ!


 わたしは、今から10数年も前になりますが、『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』という本づくりを担当して、「部落差別と結婚」について短い解説を書いたことがあります。


 そこで、結婚には本質的な根拠はあるけれども、部落差別には本質的根拠はないのだ、ということを書きました。確かな結婚の絆を大事にして、差別があればあるほど、ファイトを燃やして乗り越えるために、ともに頑張っていく。


            「融合論」再考


 今日のレジュメに「融合論」再考、などと書いていますが、私は、「融合論」が言われ始めたときから実は、シックリしないものを感じてきました。


 それは、「融合」ということは、何か別々のものが、もっと言えば異質なものが「融合」するようなニュアンスをのこして、どこか底の浅いものを感じてきました。


 これは八鹿事件のすこしあとですが、但馬で招かれて話をさせられたことがあって、私達は、「融合」を語るまえに、初めから何の垣根もないのだ! この事実は、どの時代にあっても、あの差別の厳しかったときにも、「人間の平等」という固い事実は厳然と存在していたのだし、そこを踏まえて、私達は現実に差別という垣根を取り除くために力を合せるのだ! この確かな事実を踏まえて、お互いにある慎みをもって、平等の大事さを学びあっていかねばならない! 


 当時の但馬の「解放運動」は、この隠された人間平等の基盤を見ようともしない、単なる「差別」叩きだ! というようなことを話しました。


   (次回に続く)