「杉之原寿一先生の回想」(第1回)(2010年、「地域と人権・兵庫版」)


宮崎潤二さんの作品「柏原八幡神社



  杉之原寿一先生の回想(第1回


           「地域と人権・兵庫版」2010年1月


       1  神戸部落問題研究所の創立


 昨年(2009年)7月15日朝、杉之原寿一先生は86年の生涯を閉じられた。そのことはすでに成沢栄壽先生(「人権と部落回題」10月号)や杉尾敏明先生、西脇忠之氏、そして前田武氏が兵庫人権問題研究所の雑誌「季刊・入権問題」秋号)の追悼文を通して、周知のことと思う。


 あの先生の笑顔と共に、心に残る思い出は数え切れないが、このたび編集者より先生の回想を4回程度連載するよう求められたので、この機会に感謝の思いをこめて、拙文を寄稿させていただく。


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 先生のお住まいは京都の左京区にある修学院で、神戸大学に就かれたのは1951年の事である。その翌年には、番町青年団の近藤猛氏らの協力を得ながら、初めての番町の実態調査に取り組まれた。その時まだ先生は30歳前であるが、これを皮切りに先生独自の調査方法を確立して、次々と部落問題の現状調査を重ねておられた。


 神戸でも1960年代に入ると、部落解放運動の組織的な展開を見せ始め、1969年の特別法の施行を契機に、一気に部落問題をめぐる疾風怒濤の時を迎えていく。


 私は思うところあって、1968年3月からゴムエ場の雑役をしながら番町での生活をスタートしていたが、すでに発表されていた先生のいくつかの論文や調査報告書を入手したりして、西脇・表野・前田各氏など、当時まだ青春真つ只中の活動家の熱気にもまれながら、手探りの学びを始めていた。


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 先生との最初の出会いは、神戸市がこの期に及んでもなお安易な実態調査で済まそうとする事態を、解放運動側がキャッチして、これを打ち破ろうとする時であった。杉之原先生と調査の問題点や進め方などについて相談する場に、何故か私も加わっていたのである。
 これがあの画期的な神戸市の「1971年調査」として結実し、その後の同和行政を決定付ける起点ともなるものであった。


 先生はあの時、連夜の地元説明会にも出席され、膨大な分析作業にも中心的な役割を担い、神戸市の同和対策協議会の設置のもとで、ほぼ一年間に及ぶ「長期計画」の策定作業(1973年8月策定)でも、大きな貢献をされたのである。


 この時、神戸大学の水野武先生や斎藤浩志先生などの参画もあり、先生は運動関係・地元代表者・行政関係者などと粘り強く深い対話を重ねながら、ずば抜けた政策立案者としての能力を発揮され、事実上の「会長代理」の座を担われたのである。


 この神戸市政に関る4年余りの実績を背景にして、1974年4月の「神戸部落問題研究所」の創立があった。西宮事件や朝来事件、そして八鹿高校事件へと風雲急を告げる最中、先生は理事長の重責を引き受け、渦中の人となるのである。


      2 神戸部落問題研究所 草創期のころ


 前回は、杉之原先生が1974年4月創立の「神戸部落問題研究所」の理事長に就かれるまでの背景と経緯などを、短く回想してみた。今回は創立した研究所草創期のころのことを記しておきたい。


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 研究所の創立総会は、番町に建てられた新しい改良住宅の一階に設けられた、まだ仮設時代の神戸市立長田公民館において聞かれた。当時私は、68年春から6年ほどのゴム労働における労災退職の後、1973年にこの公民館の嘱託をしていた。


 1960年代終わりには、解放同盟朝田派の暴挙が表面化していく中、1973年5月には兵庫県解放県連が解放同盟に組織加盟、9月には[西宮事件]を惹き起こし兵庫県下、とりわけ南但馬一帯が解同による無法な「確認糾弾」が常態化しつつあるときである。


 朝来教組の橋本哲朗先生や植田友蔵さんが神戸に来られ、この公民館の一室を借りて神戸の運動関係者との意見交換が行われたこともあった。


 翌1974年に入ると、兵庫県行政や地元自治体が一体となり労働運動団体などを巻き込んで、解放同盟の異常な「確認糾弾」が一気にエスカレートし、橋本先生宅を包囲するあの監禁事件、さらには11月22日のあの「八鹿高校集団暴力事件」へと突入するのである。


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 同年4月に創立していた裡戸部落問題研究所は、前回記したように神戸市の総合的な実態調査を踏まえた「同和対策長期計画」の完全実施という、宮崎革新市政と運動並びに地元の人々の、大きな期待と課題を背負って誕生したのである。


 杉之原理事長のもとに小林末夫・斉藤浩志・杉尾敏明・阿部真琴・落合重信・水野武・長谷川善計・寺田政幸・前圭一・足立雅子・内田将志といったお歴々の研究者が、創立の当初から結集され、神戸の部落の歴史をはじめ運動・教育・行政等に関る総合的な受託研究を進める自主的な民間研究機関が動き始めたのである。設立と運営に裏方として中心的な役割を担ったのは解放運動側の押戸市協であり、市内の地元自治組織との連携も欠かせなかった。


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 あの激動の時に、神戸の解放運動と行政が自主的民主的な同和行政を確立するために奮闘し、杉之原理事長の率いる研究所の諸活動もこれに呼応したものであった。この神戸という確かなケースースタディーがあってこそ、そのスタートの一歩から、着実な歩みを可能にしたのである。


 その結果、兵庫県で惹き起こされたあの「八鹿高校事件」をはじめ、全国の部落問題をめぐる理論的・実証的・実践的な諸課題を解決に導く斬新な方向性を、大胆に提起することができ、その中心的働きを担われたのが、言うまでもなく杉之原寿一先生であった。



  (次回に続く)