「人間の尊厳性(人権)とその享有について」(1994年12月、『月刊部落問題』)


宮崎潤二さんの作品「氷上郡春日町山田の雪降る民家」




人間の尊厳性(人権)」とその「享有」について


       『月刊部落問題』1994年12月号


               


 毎年年頭に兵庫部落問題研究所では「新年特別研究会」という恒例の研究部会を開いている。今年のテーマは近年そのあり方が問い直されつつある「啓発問題」が取り上げられた。そこで「啓発問題」に関連して杉之原寿一氏から、次のような「基本的な問い」が提起された。それは今日ひろく「人権問題とは何か」について認識上の大きな歪みが見られるのではないか、とりわけそこには「人権問題=部落問題」「人権問題=差別問題」といった認識が見られ、この点の明晰な整理が重要である、という指摘であった。


 杉之原氏はそこで、単に問題の指摘に留まらず自ら「人権問題とは何か」に関する概念規定として、試論のかたちで次のように言い表わされた。


「人権問題とは、人間の不断の努力によって、すべての人々に保障されなければならない基本的人権の享有と向上が、何らかの理由によって妨げられたり奪われたりすることである」と。


 この規定につづけて第二に、「したがって、基本的人権の享有とその向上が自然的・生得的差異(人種、民族、性別など)、社会的・後天的差異(学歴、職業、社会的地位、思想・信条など)、あるいはまた人為的な架空の差異(「部落差別=人種起源説」など)を理由に不当に制限されたり奪われたりする差別問題が、人権問題のなかでも大きなウェイトを占めていることは言うまでもない」とした上で、


 第三に「しかし、差別問題だけが人権問題ではない。基本的人権の享有とその向上が政治的、経済的、社会的要因によって妨げられたり制約されたりする問題も、差別問題に劣らず重要な人権問題である(公害問題、老人問題など)」と。


 この杉之原氏の提起にたいし研究会では時間の関係で突っ込んだ論議は出来なかった。
 杉之原氏はこの提起のおり、ご自分として昨年来この問題が「こびりついて」各種の関係辞書などにも当たって検討されたがどれも納得の行くものに見当たらず、『月刊・解放の道』のための昨年来の座談会(緊急シンポジウム「日本における人権問題」で、長谷川正安先生や鯵坂真先生などに尋ねたときも、明快な答えを得られなかったとも漏らされた。


 こうした提起を受けて、兵庫部落問題研究所で毎月開催されている「教育・啓発部会」でこれを深める取り組みが開始された。


 第一回では昨年『人権教育研究序説』をまとめられた出口俊一氏が「人権とは」というレジメを用意され、特にご専門の法律的な側面からの報告が行われた。


 そのなかで「人権とは、通常、人が人たることに基づいて当然に――論理必然的に――享有すると考えられる権利を言うと説かれる」とされ、この「人権」という用語は戦後になって、それまで用いられていた「人間の権利」とか「自然権」ということばにかわって登場し、これまでの「伝統的な市民的・政治的権利」に加えて、二〇世紀的な経済的・社会的権利も含む広い概念として使われるようになっている点に触れ、終りに「人権の考え方や中身は時代によって著しく異なるだけでなく、西欧型民生制国家の間においてもその相違が大きいので、同じ日本語の『人権』に当たる言葉であっても、必ずしも同じ意味に解されているとは限らない」などのコメントが加えられた。


 実際、世界の歴史のなかで歴史的に「人権思想」の面でまた「法制度的に」どのように変化・発展してきたのか。単に「西欧型民主制国家」の間の相違ばかりでなく、いわゆる「社会主義国家」における「人権」概念の特長なり問題性などの検討を深めることによっ
て、その内容も一層具体的に明らかにされなければならない課題である。


 そして同じ問題関心の中から「解放の道」兵庫版二月号で、日本国憲法の「基本的人権」について分かり易い解説も掲載された。そこでも「基本的人権とは、人間が人間として生きていくためになくてはならない基本的な権利をいいます」として、憲法の一一条、一二条、九七条をひいて解説し、二一条の「包括的人権」とも呼ばれる「幸福追求権」に触れ、これが新しい「打ち出のこづち」の役割をもって「環境権」「嫌煙権」など「新しい人権」が法律上認められてきていることが指摘された。


 こうした論議を踏まえて、さらに自由に「人権」について各自考えてきたこと、現在考えていることを、率直に出して見ようではないかということになり、話のツマとして「個人的意見」を報告させられるハメとなった。本稿はその折のメモの一部である。


 そこでここでは、杉之原氏の「人権問題」の規定のなかで「すべての人々に平等に保障されなければならない基本的人権」と言われ、出口氏も「人権とは、ひとが人たることに基づいて当然に――論理必然的に――享有すると考えられる権利」と言われる、そのことについて、一歩踏み込んで問題にしてみることが目的となる。


     A 「人間の尊厳性(人権)」について


 ところで唐突な引用になるが、先の『月刊・解放の道』の座談会で次のような発言が見られる。


 「……基本的人権を考えると、天賦人権説といった形で生まれながらに人権が与えられているという考え方についても、私も気になっているところです。つまりレトリックとして『生まれながらに』といわれるものにすぎないだろうと思います。あるいはイデオロギーだろうと思います」(一九九四年二月号、五頁)。


 この座談会の記録は、いくらか正確さに欠けるところがあるようであるが、それでも「人権」について率直な疑問が出されていて興味深い。そして上記のような見方は今日一般的な受け止め方でもあるようで、座談会でも特に異論が挟まれているわけでもない。


 そしてまたこの箇所につづいて「人権はたたかいとられるという側面があり、与えられたというものではない」という指摘もされている。


 こうした歴史的・法的・社会的な側面からのとらえ方は、それとして重要な視点であり欠かすことはできない視点であるけれども、この視点だけでは「人権」についての基本的な認識を得ることはできないのではないか、というのが本稿での問いである。


 ここで問い直してみたい視点は、今回の標題にしている「人間の尊厳性」とは何かという側面からのもので、わたしはこれを「人権」と同義にとり、以下の吟味をすすめさせていただく。


 つまり、ここで結論を先取りして述べてしまえば、「人間の尊厳性」(人権)という次元でのこととしては、けっしてそれ(「生まれながらに人権は与えられている」ということ) は「レトリック」でも「単なるイデオロギー」でもなく「人間の存在そのものの確かな事実」として、いねば「存在論的な事実」として、「もの」の存在の基本的構造として、より正確にありのままにとらえなおすことが、まず欠かすことが出来ないし、それを欠かしてはならないのではないか、ということである。


 つまり「もの」が存在するという事実には、必ず「もの」を存在させるものがある。
その意味では「もの」でもある「人間」は、だれもすべて「存在させられた存在」として「生れ」「生き」「死んでいく」存在である。


 誰でも自分の両親を選ぶことができない。生れる場所も時代も選べない。限られたこの場所に、またこの時代に生れるという事実性かある。自分の名前も自分では決められない。両親が「生んだ」のだが、親たちが子供を生むことのなかには、単に親が勝手に「生む」のではない「生れる」という受動的な「授かり物」というニュアンスが常に含まれている。「いのち」に対する、そういう基本感覚、慎みのようなものは、誰でも持ち合わせていることである。


 この決められた場所(場所のみならず時代、家族・国・男か女か、或る意味では人の待ち味・容貌なども含めて……)のなかで、単に自分の思いではない形で誕生し、そこで、そのつど「いま・ここ」にあって、ものの道理・道にしたがって、日々ちからをあわせて
歩むことが出来るように生まれ出ているのである。


 だから、人間が存在すると、そこには間髪をいれず「被決定」という事実が含まれている(厳密にはここは 「決定するものなき決定」とも言われる)。


 存在するに価する価値がこちらにあったから存在せしめられたのだなどとは言えないのであって、本当のところ、生れさせていただいている! ――絶対無条件に、ありのままに受け入れられて、積極的に肯定されて生れ出ている。


 ほんとうの「自立」の力は、自ら「ありのまま受け入れられている事実―尊厳性の確かさ」が「発見・受容」され、はじめて、生きる元気が出てくる構造になっているのである。


 再び、先の座談会から引いてみたい。


 「『生れなからにして与えられている』という言葉で思い出すのが、近代合理主義といわれるデカルトスピノザといった人たちの強調したことが人間理性だったことです。『人間理性はすべての人に平等に与えられている』というと、これほど平等に与えられているものはないということでした。たしかに人権が平等にあたえられているというのはイデオロギーだという気がしますが、理性は平等に与えられている、その理性を基礎にして人格の平等なども考えられるわけですから、この点は大事なことだろうという気がします」(同、五〜八頁)。


 たしかに、デカルトはいわゆる近代の入り口に立った人である。そして、有名な「我思う、故に我あり」と言って、人間の理性の大事さを発見したことで近代を出発させた先駆者である。


 しかし、こうした近代合理主義、つまり「理性」(考える)の平等ということでは、人間の平等性を正確に理解することは出来ないのではないか。実際「理性」があるかないかで人間の価値を決めるわけにいかないからである。


 こうした見方に留まれば、「考える」人間が価値が重く、考えることさえ不自由な人間は価値が劣るような見方に落ち込む傾きから自由になれない。


 どこか不健康な近代人の傲慢を残してしまって、宮沢賢治が最晩年病床にあって教え子に書きおくった手紙で記したというあの「慢」に通じるものである。


 人間の価値には「発達的価値」といわれる次元でいわれるものの、言わば「裏側」に必ずすべての「もの」に「事実存在そのものの価値」が裏打ちされているのである。


 したがって、「人間の尊厳性」(人権)−−「自由・平等」−−は、人が事実存在するそこに必ず裏打ちされている事実としてみなければならない。決してそれは単なる「理想」や「理念」ではないからである。


 「人権」はその意味では「生命・生・いのち」と同義でもなければならない。「人権」の検討はこうした側面をさらに厳密に「存在の事実」に即して進められる必要があるように思われる。


           B 「人権の享有」について


 次に、この「人間の尊厳性(人権)」の「享有・向上」について考えてみたい。


 あらためて繰り返すまでもないことであるが、「人間」(もの)の存在そのものの尊厳性の日々の「発見の喜び」が「享有・向上」ということの意味である。


 今年は西田幾多郎没後五〇年ということで、西田の作品への関心が強くなっているようであるが、有名な彼の初期の名著『善の研究』に次のような興味深い表現がある。


 「……善とは自己の発展完成 self realization である……竹は竹、松は松と各自その天賦を充分発揮するように、人間が人間の天然自然を発揮するのが人間の善である」(岩波文庫、二八〇頁)。


 彼のその後の思索のあとは興味つきないものがあるが、人間の尊厳性(人権)は人間すべてに、そしてそれぞれの生涯にわたって、つねに「享有」されるべく求められ、待たれているのである。だからこそ、そこに「人権」の「歴史的発展・向上」ということが言え
てくるのである。


 ところで人権の「享有」は Enjoyment であるが、これは「受用」とも訳される。つまり「受けたものを自ら用いる」という意味のようである。人間の個人性(持ち味)を発揮する、実現させる、向上させるという意味である。同時にそれがほんとうのよろこびであるのである。

 「人権の享有」ということで一般に西欧では、とくにその「 自由」については「財産の私的所有権」を指すようである。財産を持たなければ自由でない、お金がなければ自由でない。そうしたものとして「人権」が要求されて来た。


 つまりこれは、近代市民社会の特長であって、マルクスはこうした「人権」の見方を「ブルジョアイデオロギー的産物である」として反対したのである。


 例えば、彼の「ユダヤ人問題によせて」(『へ―ゲル法哲学批判序説』所収、大月書店文庫版)には次のような箇所がある。


 「……いわゆる人権なるものは市民社会の成員、換言すればエゴイスト的人間、人間からまた共同体から切り離された人間、の権利にほかならぬという事実を確認しよう」(三○四頁)。


 「自由の人権は人間と人間との結合ではなくかえって、人間の人間からの隔離にもとづく。……自由の人権の実践的適用は私的所有の人権である」(二〇五頁)。


 このようにマルクスは、「近代市民社会」の基本でもある単なる「自己本位」の「私的所有」「自由の人権」に疑問符を投げ掛ける。


 そして彼は、人間についての倒錯した見方である「私的人間」(PRIVAT MENSCH)からの解放を積極的に示そうとするのである。


 そして、若いマルクスは「あらゆる解放は人間界を、世の中のあり方を人間そのものへ引き戻すことである」(三一三頁)として「類的存在者」「類的人間」の発見にたって「人間的解放」を訴えたのである。彼のあの『経済学・哲学草稿』(大月書店文庫版)など読むかぎり、そこにはこうした深い人間理解が感じ取られる。


 「一つの対象的な感性的な存在としての人間は受動的な存在であり、かつ、彼の苦しみを感じる存在なるがゆえに、情熱的な存在である。情熱、情念は、人間の、おのれの対象にむかって精力的に志向する本質的力である」(二二四頁、傍点ママ)。「非対象的な存在とは一つの非存在(化け物)である」(二二三頁、傍点ママ)。


 マルクスには「私(わたくし)された人権」の問題性が気付かれているが、そこをどう私たちもヨリ正確に「経験・自覚」できるのか、これが現在の課題である。


 それは、普通私たちが「人権」と呼んできたものが根本から否定されて、新しく生れ出てくる「いのち」を意味するような、そうした「人権」理解が新しくよみがえるとき、生きとし生けるものの存在の本当の共同ということが、お互いの生き方になってくるのではないか、と思われる。

 (以下当日の報告では、「近代の出口」に立ったといわれるサルトル夏目漱石精神科医フランクル、詩人の大岡信宗教哲学上田閑照などに触れてこの課題を考えてみた)。


             結 語


 以上は「人権」(人間の尊厳性)に関する私的なノートである。
 たどたどしく記してきたように「人権」は「私する(所有する)ものではなく「受用・享有」され、すべての分野で発揮され、また共に保障されなければならない。


 なぜなら、事実存在するそこには、必ず共同・共通のふるさと(いのちのみなもと)が、つねにすぐ裏側に直接に隠されているということがあって、日々新しくもの(人間)を支え、許し、促しているからである。
                  
                    (兵庫部落問題研究所事務局長)