「宗教と部落問題」(1986年、国民融合をめざす東播研究集会)



   宗教と部落問題


  1986年8月30日 国民融合をめざす東播研究集会


       


 「国民融合論講座」で「宗教と部落問題」についてのお話というのは、どうも場違いのように思われるかもしれません。実際、これまでほとんどの場合、部落問題との関連で「宗教」が取り上げられるときは、「宗教」の果たしてきた差別的な諸事例―−例えば、”差別戒名・法名問題” ”業問題” ”旋陀罷問題””触機思想“など―−が追及され、宗教界(者)は自らの「差別体質」を反省して、「部落解放運動」に「連帯」するという、ひとつのパターンがありました。


 そして、真面目に、しかも熱心にかかわろうとされている多くの宗教教団の方々は、そうした動向に一定の意味を覚えつつも、どこか納得のいかないものを残して、今日に至っているように思います。


 同時にまた、国民融合の方向で運動をすすめておられる立場から見ましたら、こうした宗教界の取り組みに対して、少なからぬ憂慮をもって、その成り行きを見守ってこられたのではないでしょうか。


 ですから、国民融合論にふれた積極的な何かを宗教界(者)に期待するなど、はじめから間違っているというようにお考えになるのも、うなずけることかも知れません。


 ただ、しかし、宗教界(者)がすべて、国民融合の方向に逆行する生き方ばかりしているとは限りません。部落解放運動や同和教育、同和行政などに直接かかわりのある方々のなかには、実はたくさんの宗教者がおられますし、国民融合の方向で、熱心に活躍されている方々も少なくないと思います。


 私自身も、自らを宗教者とよぶのは少々はばかりますが、当初から国民融合の方向をめざした部落解放運動のもとで、共に生きてまいりました。私達がかかわってきた部落解放運動は、部落解放同盟の時代からすでに部落外の者をはじめから「差別者」扱いするようなことのない、文字通り住民運動にふさわしい関係がつくられ、育てられてきたように思います。


 そして、だんだんハッキリしてきましたことは、国民融合の方向は、すべての人に共通する、普遍的な基礎をもった解放理論であるばかりでなく、それは宗教者が本来そこを発見し、そこをふまえて生きることができるものとひとつである、ということでした。


 そうなってきますと、「国民融合論講座」で「宗教と部落問題」についてお話するのも、けっして不自然なことではないことになります。むしろ逆にそれは、必然的なことだと言わねばなりません。私達が、積極的に宗教本来の在り方と役割について考えることは、同時に部落問題の正しい解決の方向である国民融合の道をたずねることと、何ら矛盾は無くなってまいります。
 そんなわけで、以下いくつかのことをお話して、何かのご参考にしていただければと思います。


                 


 いまから二〇年以上も前に読んだ小さなエッセイがあります。
 当時、京都市立青年の家の所長をされていた岡田まきさんの「田舎牧師と部落」と題するもので、ご自分の父を語った、それも昭和のはじめのころの子どもの頃の体験を綴ったものでした。


 ≪……越後の雪深い教会から、丹後教会へ父が赴任したのは、ちょうどわたしが小学校へ入学する四月のはじめだった。……ほこりのまいあがる山陰街道をはさんで、わたしの家の向かい側はKさんという靴屋だった。……ある日、組うちの人がやってきて、おひまちをやるから、父に出席してくれといった。おひまちというのは、この土地の習慣で、組うちの者どうし、月一回寄り合って、飲み食いする、つきあいの会といったものであった。父は、言われた日に出かけていったが、すぐ帰ってきた。父はプリプリ怒っていた。
 理由はすぐわかった。父が出た席に靴屋のKさんがよばれていなかったことであった。父がその場でそのことをたずねると、あそこは仲間でないという。……それから、このことをめぐって幾日も幾日も、組うちの人たちを相手に、父の執ような説得がつづいた。同じ人間どうしなのに差別はないという父の主張は、組うちの人たち全部が束になってかかってきても負けなかった。
 ついにKさんの家族が来て、泣きながら、われわれの仲間にみられるからやめてほしいと言った。父は「あなたがたのためにやっているのではありません。わたし自身のためにやっているのです。心配しないでください」と言った。幾日もつづいた父の頑固な説得に、組うちの人たちは、ついに屈服して、Kさんはおひまち仲間に入り、父も組うちの人だちと仲なおりをした。 ……》


 こうしたことは、宗教者だからということではなしに、あちこちで、隠れて存在していたことでしょうし、今日も多くの場合ほとんど目立つこともなく存在しつづけているにちがいありません。


                 


 詩人の丸岡忠雄さんはみなさんご存知の方も多いと思います。晩年の一〇年ばかりご交誼をいただきましたが、あの方は、私の目からいたしましたら、実に魅力的な宗教者のお一人と映ります。


 丸岡さんのご尊父は、「熱心なご同行」で「タベのお正信喝を決して欠かさん人じやった」そうですが、丸岡さんの場合そうした形の上での宗教者らしいところなど、どこにもない生活ぶりであっだのかも知れません。


 しかし、一昨年急逝のおり、作業ズボンのなかに大切に入れられていた一冊の書物がありました。それは親鸞の「歎異抄」の文庫本でした。奥様からそれを見せていただきましたが、だいぶヨレヨレになっていて所々に朱が入れられていました。あの「弟子一人ももたずさふらふ」のところにも。


 私は、ずっと以前から、丸岡さんに対して、ひそかに「在家宗教者」のイメージを持っていました。「在家」という意味は改めて申しあげるまでもなく、単に教団・寺院・教会信者ということではなく、勿論それを含みますが、もっとも基礎的な単位としての、自分の生活のなかで「信心決定」する人、という意味をもっています。


 ご本入とこのことで特に話し合ったことはありませんが、丸岡さんには、これまでの人生のなかばで、ある「目覚め」「発見」「出会い」があったはずです。その点でひとつハッキリしていることは、丸岡さんにとってまだ二〇少し前、「ふるさと」を隠す苦悩のなかから解き放たれる経験をされた、歴史家の潤間先生との出会いがありました。


 後に、丸岡さんは、次のようなことを書きしるしておられます。


 ≪この先生から部落問題の真実を知ることを学んだ。……先生は「部落は農民政策だ。農民とエタがいがみ合い対立する関係は為政者が一番よろこぶ」。先生は資料を示された。
それは時の権力者が意識的に、しかも実に巧妙につくりあげた「分裂支配の形」であった。
「どうしたら、では部落は解放できるか、今の君だったらわかるはずだ」。隠していたことはとんでもないまちがいだった。今までの恐れがふっとんでしまい、すくなくとも、この頃から、僕の意識は一八〇度転換した。》


 詩集『部落―−五本目の指を−』が刊行されるのは、それから二〇年余り後のことですが、丸岡さんにとって、部落問題の正しい理解と目覚めは、ご自分の人生に対する根本的な理解と生きる意欲のみなもとに通じていたように思います。(詩人竹内てるよさんとの出会いとその影響も重大事ですが、ここでは触れることができません。)


 最晩年、神戸で聞かれた研究集会でのお話の題は、”人として−同和問題を考える”というものでした。こころ打つ、素晴らしい講演でした。彼の周辺には、「部落」の壁をすっかり破った「国民融合」の息吹にみちみちた人々が、群がっていきました。そしてそれは、今もかわらずそのいのちは確実に受け継がれてきています。


                 


 時代は異なりますが、丸岡さんと類似したお方に西光万吉さんがおられます。
西光さんは有名な「水平社宣言」や「よき日の為に」の起草者としてよく知られていますが、西光寺の住職であった清原道隆師のご長男で、本名を清原一隆といいました。


 時々、法衣を着てお説教もされたそうですが、若いころ、僧侶になることを嫌って画家を志して東京に出ていき、「ふるさと」を隠す苦しみをなめ、挫折から自殺をいくども図ったりしました。う余曲折をへて、ゴーリキーの『どん底』のことばでもある「人間は尊敬すべきものだ」という「人の世の熱と人間の光」に目覚めていくのです。


 それはまだ、おぼろげな目覚めであったかも知れませんが、水平運動の出発は、それ以後の歴史に多大の影響をのこした大事件でした。


 水平運動は、勿論当時の時代情況のなかから強い影響をうけて生まれたもので、「解放の原則」を強調した佐野学や社会主義者堺利彦などとの接触・交流がありますが、同時に誓願寺の三浦参玄洞とか賀川豊彦といった宗教者の影響もみのがすことはできまぞん。


 また、西光さんの父は、ある日、彼をよんで次のように言われたそうです。


 《……運動は進んでいるか、やれるだけやれ。しかし村を離れて、京か大阪へ出ていけ。そしてそこで運動をつづけよ。金は少しずつでもできるだけ送ってやる。とにかく今日は、これだけ持っていけ。……》


 西光さんは、「父が壇家の人びとから責められながら、私をかばってきたことを知っているので、その金をもらい、風呂敷包み一つさげて寺を出て」あの水平社運動に、新しく旅立つのです。


 和歌山県の吉備町は、水平運動の影響を早くからうけてきた町として知られています。そして、この町で「トーン計画」といわれる、住民の自立と融合をめざす取り組みがすすめられて、多くの人々の注目を集めています。


 そこには、数多くの教訓が残されていますが、そのひとつに、当地の寺院や個々の信徒をふくむ「宗教の役割」があげられています。


 住民の自立と融合をめざす取り組みは、教育・行政・運動などすべての総合的な営みのなかでみのっていくことは言うまでもありませんが、良い意味で、その地域社会がひとつのまとまりをなし、ひとりひとりの独立と自立が促されていく精神的なバネをいきずかせる要因のひとつに、「宗教の役割」が見られます。


 宗教は、地域支配の悪しき役割を担う場合も少なくありませんが、逆に寺院や信徒の方たちが、地域における諸活動に開拓的な役割を、共に担ってきておられることも否定することはできません。


 古い話になりますが、徳川幕藩体制下での薩摩の島津藩によって弾圧された「隠れ念仏」のことは、「宗教と部落問題」を考える上でも「国民融合」を考える場でも、いくらか教えられるものがあるように思います。


 大方の真宗教団が、封建支配のお先棒をかつがされるなかで、一向一揆のように大きなエネルギーをしめしたことがありました。「隠れ念仏」というのは、この一向宗のことですが、その念仏共同体においては「念仏講」というものがつくられていました。そこでは「身分の壁」が越えられた交わりが実現していたのではないか、と言われています。


 もちろんそれは公然とではなく、「隠れ念仏」の共同体においてです。支配層にとっては、こうした身分を越えた「信」「志」のみによる連帯的行動―−明治維新のときの「志士」たちのごとき「横議・横行・横結」―−は放置するはずはありません。キリシタンヘの弾圧も同様ですが、あの時代において一向宗の信徒であれば、厳しい弾圧をくわえるということがおこなわれたわけです。


                


 宗教は本来、自由と平等、解放と連帯を促すものへの発見をともないます。それは、時には既成の宗教的伝統をその根本からゆるがすようなものにもなっていきます。日本では鎌倉期の親鸞日蓮道元の時代は、そのような高揚期でした。そして、そのことが、人々の生き方や、政治・社会の在り方にも直接・間接に強い影響を与えずにはおかないものにもなっていくのです。


 言い換えますと、人間の自由と平等、解放と連帯ということが、すべてのひとのもとに備えられているという、この事実が、私達の共通の出発点なのです。この事実は、だれにも私物化できません。ただ誰もがこの事実をうけて、それに即して生きることができるだけです。


 それは、単なる観念のように見られがちですが、この事実は、これから私達の努力で実現させなければならないようなものではなく、すでに無条件にはじめからあり、いまあり、永遠にかわることのない事実です。


 だからこそ、人間の自由と平等、解放と連帯を促す確かなこの基盤に裏打ちされて、共に力を合わせて日々努力することができるのです。この意味では、二一世紀を待たずして、すでに国民融合論の基礎はすえられています。


 この事実(基礎)をハッキリと見出し、そこをふまえて生きる者が、ここでいう「宗教者」という意味です。私達はいま、そうした基礎と目標を明確にした「国民融合の道」をシッカリと歩んでいます。それが、新しい時代の解放運動の大きな流れなのです。
 宗教者は、そのことをハッキリと証しするものでなければならないと思います。