「私の青春とキリスト教」(第2回)(1990年、『講座・青年』第4巻「青年はどこへ」)


宮崎潤二さんの作品(1978年4月)



     私の青春とキリスト教
              

      『講座・青年:青春はどこへ』第4巻
         1990年 清風堂書店


            (第2回)

   (前回の続き)


           新しい発見と出会い


 多くの場合、「宗教」といわれるものは、わたしたちの生きていく「確かな足場」を自分たちだけが所有しているかのように錯覚して良い気になって、人々をその「宗教」に取り込んでしまおうといたします。どんなに世界宗教といわれるものでも、わたしたちを本当に落ち着かせ、自由にするかわりに、どこか現実から逃避的で独善的な、旧いわたしをそのままにさせてしまう厚い壁から、無縁ではありません。
 

 ですから、どの宗教のなかからも、根本的な改革をもとめる流れが生まれてきます。そして、青年たちは自分自身のこととして、いさぎよく「谷川を奥へ奥へとより深き水のあるところをもとめて」あゆみ始めることにもなるのです。それは、単に「宗教」からの脱出ではなく、「宗教」そのものの根本的なとらえ直しへの、新しい旅立ちでもあるということができます。


 かつて『美しい女』などの作品で知られる作家・椎名麟三などとともに独自な活動をすすめたキリスト者・赤岩栄(一九六六年没)は、一九四九(昭和二四)年の「コムニスト宣言」などで宗教者の社会的実践の在り方に一石を投じたり、その最晩年に『キリスト教脱出記』(理論社)を著わして、みすがらの旧いキリスト教を脱皮して、新たな飛躍を試みたことなども、日本のキリスト教史のひとつの出来事でした。彼は、仏教関係者との交流や平和運動など、キリスト教の枠を越えた世界で自由にはばたき、大きな刺激を與えました。


 こうした、赤岩のような象徴的な人物ばかりでなく、現代の小さな「雄鹿」たちは、じつはあちこちで目立つことなく生きています。特定の宗教教団に属することなしに、黙々と生きる「雄鹿」たちは、世代を超えて無数に存在しています。


 むしろ、わたしたちはすべて、一人の例外もなく、人としての「確かな足場」を探して生きているのですから、わたしたちにとって、こうした「雄鹿」たちの存在は、それこそ掛け替えのない「地の塩」(聖書では特別の意味をこめてこのようによびます。マタイ福音書五章一三節参照)の役割をはたしていることを思わざるをえません。


 どの時代でもそうかも知れませんが、この「雄鹿」たちは、わたしたちがぼんやりと気付きながら、発見できずにきてしまった「確かな足場」に出会って、静かな喜びに促されてこの時代を生きています。


 わたしたちは、毎日の日常生活のなかで、思いも掛けないような出会いをとおして、そうした「雄鹿」にまみえることがあります。自分が問いを出しているそれよりも、はるかに深く本格的に問いつづけ、悩み抜き、苦闘してさぐり当てた「雄鹿」たちがいるのです。


 そうした人たちは、いくら若くても年齢にかかわりなく、わたしたちにとって「師」といえる方です。悪戦苦闘のすえ、ある真実に出会い、その人の全人生をとおして新しく生きておられるのですが、それがわたしに意味を待ち始めるのは、その師自身を生かしている真実が、たんにその師にのみ関わることではなく、わたしたちすべてのものに直接関係してくることであることが、このわたしに見えてくるときです。そこに、新しい自己の発見が、このわたしにおいても起こることになるのです。


 しかし、どういうわけか「宗教」の多くは人間を束縛する役割をもったり、自己変革とは逆に、旧い自分をますます頑固に自我を固くかためてしまうような役割を担うことも少なくありません。


 さきにも触れましたように、どの宗教であれ、独り善がりの独善に陥ることかあります。自分が真理を発見したということで、はかのものを見下したりすることもしばしば起こることです。


 もちろんしかしそれは、まだ本来の真実に出会うことのない「宗教」であることの証拠を示すむのであって、本来の宗教は、旧い「宗教」そのものを根本的に解き放つものでもあるのです。わたしたちも、そこに目覚めさせられることがなければ、けっして本当には落ち着くことはありません。そこから実は、宗教は生まれているはずなのです。


 よくキリスト教は、他の宗教にくらべて「青年の宗教」だといわれることがあります。確かに牛リスト教には、比較的青年が多くつどい、若者が群れているところがあるかもしれません。そこには、青年を引き付けるある何かがあるのでしょう。


 もともとキリスト教の始祖であるイエスは、だれでも知るとおり三〇歳ほどの若さで十字架刑で生涯を閉じてしまった、いわば「青年イエス」でした。


 そこで若者たちは、「イエスという男」は、なぜあのように自由果敢に人間らしく、自然に明るく生きることができたのか、その秘密を探ろうといたします。


この男は、何を信じ、何を目当てにして歩もうとしたのか、人として生きる生き方の基本形のひとつを、そこに発見しようとします。


 つまり、わたしの本来の自己発見がそこに起こることになります。「わたし」というのは、これまではただ「わたし」がそれだけでいるかのように考えて、自分で自分の「足場」をつくろうと執拗にもがいているようなところがありました。


 しかし全然そういうことは必要ではなく、わたしたちにはだれにもはじめから、「イエスという男」と全く同じように「確かな足場」は無条件に置かれていて、ただそれを見出し、それを受けて立つことで充分だということに気付かされます。


 このようにして、「青年イエス」は、人々の悪しき宗数的束縛からわたしたちを自由にし、ものの見方・感じ方をまったく新しくして、不思議なインパクトを与える身近な「友」として生きはじめることになるのです。


 ですから、わたしたちに必要なことは、既存の宗教の見えるかたちに目を奪われることなく、それが成り立ってきた「宗教の基礎」とでもいうべき隠された事実に、いつも立ち戻ることがもとめられています。青年は、はじめ宗教との出会いをとおして、これまでに知ることのなかった数々の大事なことを、そこで学びます。


 しかし、そこで抱かざるをえない疑問にぶつかり、「雄鹿」のように奥へ奥へといのちの泉を探ってあゆみ、ついに時いたって「宗教の基礎」に立ち返ることになるのです。そして、そこに新しい自己の発見へと導かれ、新しいあゆみへと促されていくのです。この新しさは、「宗教」をその「基礎」からいきづかせ、いのちあるものにしていくものであるのです。


   (次回に続く)