「私の青春とキリスト教」(第3回)(1990年、『講座・青年』第4巻「青年はどこへ」)


宮崎潤二さんの作品「木枯らし吹く里:神戸市北区僧尾)」




     私の青春とキリスト教

              
       『講座・青年:青春はどこへ』第4巻


         1990年 清風堂書店
 

            (第3回)


     
           共に生きる自由と対話


 
              内村鑑三


 若いときのこの真剣な道の探り当ては、新しい生き方を生んできます。ある場合は学開の世界で、ある場合はスポーツの世界で、またある場合は芸術・宗教、そして普通の日常的な生活のなかで、それぞれの個性を発揮して生きることを学んでいきます。


 日本の明治以降の歴史のなかでも、わたしたちの忘れることのできない先達はけっして少なくおりません。多くの日本人のこころをとらえた内村鑑三なども、その青年時代の悪戦苦闘のさまは、彼の若き目の著作『余は如何にして基督信徒となりし乎』や『基督信徒のなぐさめ』(いずれも岩波交庫版あり)など読むだけでもうなずけます。


 二○代の終わりの、第一高等中学校における教育勅語奉読式での「不敬事件」を起こして退職したことなどはよく知られていますが、彼の独白な「無教会」運動は、一九三〇(昭和五)年にその波乱にとんだ生涯を閉じるまでつづきました。彼は雑誌『無教会』の創刊号(一九〇一年)で、彼の信じる「無教会」を次のように書き記しました。


 「……神の造られた宇宙であります、天然であります、是れが私共無教会信者の此世に於ける教会であります。其天井は蒼空であります、其板に星が鏤(ちりば)められてあります。其床は青い野であります、その畳は色々の花であります、其楽器は松の本梢であります。其楽人は森の小鳥であります、其高壇は山の高根でありまして、其説教師は神様御自身であります。是れが私共無教会信者の教会であります……」


 ここには、単に西欧からの直輸入型のものではない、彼臼身の個人的かつ時代的な苦悩をくぐり抜けて、ようやくたどり着いた独創的な把握の仕方が、率直に表現されています。そして、そのことが同時代の日本人のハートを射止めたのでした。


 
               賀川豊彦


 また、日本の明治・大正・昭和の時代を生きた賀川豊彦なども、内村と同様に単に狭く閉鎖的な「宗教」のなかに人々を閉じ込める働きをするのではなく、逆にその困難な時代のただなかで生きて行く、本当の力の出どころを探り当てる仕事に打ち込んできました。


 彼のことはよく知られているように、幼くして両親から死別し「妾の子」などと中傷され、引き取られた親戚も予期せぬ破産に見舞われるなどして、一〇代にして「不治の病い」との闘病と、人生への深い懐疑を経験しながら、ついに自己そのものについての新しい発見へと導かれるのです。


 そして彼はハッキリと知るのです。―−無価値とばかりおもわれるこの自己も、この世界も、単にわたしがそうおもうように無価値であるのではない。むしろ全く逆に、このわたしも、この世界も、わたしたちがどのように不信と争乱のもとにあろうとも、はじめからわたしたちを無条件に価値あらしめる方が、すべての人・物と共におられ、奮闘しておられるのだ。何故これまでこのことに気付かずに来たのだろう……と。


 一度ならず幾度も、死線をさまよった彼にとって、この新しい幸いな目覚めは、身体上の自らの病いに対するつきあい方をも変えさせていきました。明日をも知れぬこの身でも、日々変わらず奮闘しておられる方が共におられるのだから、立ち上がってあゆみ出すことができることを知ることができたのでした。


 彼の超ベストセラー『死線を越えて』(一九二〇年)の中には、新見栄一の名でそのときのおもいを、次のように語らせています。


 「どうせ近い中に死ぬのだから、…死ぬまでありったけの勇気をもって、もっとも善い生活を送るのだと決心・・。・・・貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい。そのために貧民窟で一生送るという聖い野心を遂げるまでは死なぬという確信をもっていた・・・」


 こうして、二一歳の賀川は、当時すでに日本有数の都市貧民街であった「葺合新川」で生活を開始することになったのです。青年賀川のあゆみ自体がスゴイことですが、むしろわたしたちには、彼にそうさせた、そのようなあゆみを促した、その元にあるものが大事なことです。その元にあるものが、このわたしたちの元にあるものでもあるからです。(この項は拙著『賀川豊彦と現代』兵庫部落問題研究所刊参照)


 日本において彼は「協同組合運動の父」ともいわれますが、近年際立ってこの「共同」ということがあらためて注目をあつめています。これは、こんにち宗教と直接関係をもつことではありませんが、わたしたちのかつて同和地区といわれていたところからも、この「共同」の試みが始まっています。


 たとえば、中高年福祉協同組合とか、教育文化協同組合などの運動がそれです。中高年福祉協同組合といえば、青年と何の関わりがあるかと尋ねられるかもしれませんが、この仕事にかかわる青年たちがそこで大変重要な役割を担って活動しています。


 また、教育文化協同組合というのは、子育てに励む親子の共同の取り組みです。これらは、人間が本来求めているものの確認・発見・目覚めから起こってきているもののひとつです。



           宗教の知恵−共同の意味


 宗教の真の知恵は、本来その根本には、この「共同」ということが含まれているといわねばなりません。新しい価値観の発見がそこには存在しているようにおもいます。自分たちだけの社会や共同体を作るというのではなく、その垣根を破り、新しい「友」に出会い、ともに生きることを本懐とする、そういう宗教的情熱をいきづかせているものでなければならないでしょう。


 宗教の魅力は、何か自分だけの囲いを大きくし、その勢力を増殖させてそれが「いのち」のもとでもあるかのようにおもい違いすることがありますが、けっしてそういうものではありません。


 わたしのある友人は、二〇代の半ば過ぎ、思うところあって「新しい歩み」をはじめ、そのときに短い散文詩を書き残しています。「地の塩考」と題されたその一節に、次のようなことばがあります。


 「……そして或る日、塩は敢然と身を投げかけた。壷の中から、真直に地上に向かって、溶けて見えなくなるために。真っ黒い地は彼を呑み込んだ。こうして、彼は死んだ。彼の姿は最早地上の何処にも見えなかった。しかし、塩は全地に行き亙り、全地は地の塩でみちていた。」


 宗教には、大きな勢力になるかわりに、「塩となって解けてなくなる」ことをいさぎよしとする基本的な姿勢かあるものです。上に立つことを求めず「つかえる」ことを喜びとするような生活態度がいきづいているものです。


 そこにまた、宗教の絶大な魅力が潜んでいるのでしょう。日本の福祉の分野で、目立つことなくもくもくと働く宗教者はけっして少なくおりません。また、その働き手として、苦労の多い困難な世界に次々と若い人々が加わってきていますが、これも不思議なことだといわねばなりません。


 そして、宗教は、そういう下積みのなかで生きることを強いられて、苫悩をなめさせられるものに大きな慰めと勇気を見出させるものともなってきたのです。


 現在、ラテンアメリカを中心に「解放の神学」といわれる抑圧されている人々の解放をめざす「基礎共同体」が生まれて、世界的な注目をあつめていますが、これらの活動もそうした精神に突き動かされています。G・グティエレスの『解放の神学』(岩波現代選書)をはじめアジア自生の『民衆の神学』(散文館)など多くの出版物が翻訳され、若者たちに親しまれています。


 
             対話と折伏の違い


 また、青年にとって人事な課題であり、同時に宗教にとって重要なことは、「対話」ということです。特に、自分とは異なった立場や諸思想・諸宗教との出会いが重要な課題として気付かれてきます。


 ご存知のようにキリスト教は、宗教のなかでも特に一神教ということから、この宗教が唯一絶対であるかのように考える傾向があって、どことなく我こそ独り真理を握っていて、他のものは邪教か異教徒としてしか振る舞うことができなかった時代が長くつづきました。


 いまでも、そうした傾向は拭い難く、相手を「折伏(しゃくぶく)」することを「伝道」と考えるような誤った態度を取る場合もけっして少なくありません。そして、若者たちもそうした「教会」の姿勢をうのみにして過熱している人々が多く見られます。


 これは、しかし、「宗教」のもつ根本問題です。こうした傾向性をその根っこから脱却するには、冷静で旺盛な批判的自己吟味がもとめられます。二〇世紀の代表的神学者として日本でも甚大な影響を与えつづけたカール・バルト(一八八六〜一九六八)は、この宗教の独善性から自由な神学者として知られています。


 彼の美しい小品『モーツァルト』(新教出版社)はひろく一般にも知られていますが、彼のような自由な神学者でも、どこか「キリスト教絶対主義」から脱することのできない不徹底さを、その晩年近くまでもちっづけていました。


 このカール・バルトと一九三〇年代半ばにはじめてドイツで出会って以来、全生涯を通じて彼の不徹底さを批判し、生きた「対話」をつづけた日本の哲学者がありました。その人は、『日本人とユダヤ人』(山本書店、後に角川文庫)の著者、イザヤ・ベンダサンの著作を論評し独自の主張を展開した『日本人の精神構造』(講談社)などでも知られる滝沢克己(一九〇九〜一九八四)で、哲学・経済・文学など多分野での思索を深め、宗教の分野でもバルトに匹敵する大きな仕事を残しました。


 彼は、これまでキリスト教では自明のこととして告白されている「イエス。キリスト」、つまり「イエスはキリストである」という、「である」の意味を問い直すことによって、すべての人(もの)のもとに絶対無条件に在る「インヌマエル」(「神われらと偕に在す」)の事実を言い表わしていることを明らかにしました。


 そこから自ずと「キリスト教絶対主義」の束縛から自由になり、他の諸宗教との真の「対話」と「出会い」が始まることを指し示すことができました。そこでは、何ら特別な自己抑制やどこかわざとらしいものを自分にしいるようなこともなく、他のものに対してもいつも聞かれた態度を生むことになります。


 こんにち、世界のなかでも、宗教の違いのために不幸な争いがつづいていることもしばしばです。それにはもちろん宗教だけの問題ではなく、社会制度や文化的な障壁がその要因になっているのでしょうが、やはり、互いに違ったものの感じ方や文化や言語が、それぞれに尊重され大切にされることがなくては、本当の社会・共同社会とはいえません。


 その、心底からの対話・おたがいに尊敬する態度が、ものの考え方のなかで、論理的にもハッキリと見極められるのでなければなりません。そうした、新しい対話のヴィジョンが、現在の新しい世界に始まろうとしているのだとみてよいとおもいます。


 今日の青年のなかに、この新しい動きに気付き、強い関心が持たれ始めています。キリスト教の関係者も仏教の真理に目を開かれ、大いにグローバルな対話がすすめられてきているのです。そうしたことが、宗教の世界から(も)起こっていることが、現代において実に面白く、重要な事実です。


 このことはもちろん、単に宗教の世界だけでなく、それこそ音楽・芸術・たべものの世界でも、いわゆるエスニック・ブームで、世界の音楽・世界の芸術がうたわれ、それぞれ固有の伝統・文化を大切に見直し、それを深める形で世界的な視野からこれを共有していくことなどが、いま大きな流れとしてほうはいとして起こっています。


  (次回につづく)