「私の青春とキリスト教」(第1回)(1990年、『講座・青年』第4巻「青年はどこへ」)


穂積肇さんの作品「塘路乱雲」(『アイヌ今昔ものかがり』原画)



    私の青春とキリスト教

              
      『講座・青年:青春はどこへ』第4巻
        1990年 清風堂書店


             (第1回)


           現代の「雄鹿」たち

 
         自分が生きる足場はどこにあるのか


 世界はいま大きく動いています。しかしそれが、どこからどこにむかって動いているのか、はっきりその方向を見極めることは、だれにとっても至難のことです。宇宙の成り立ちや地球の軌道はいくら分かっていても、そこで生を与えられたわたしたちが、この世界の歴史の方向と未来について明確な見通しを立てることは、いつの時代でも困難なことです。それは、わたしたちの個人の歴史においても、またわたしたちの身近な地域社会や国の移り変わりにおいても、これまで経験することのなかった新しい経験をさせられていくことでもあるからです。


 こうしたなかで、わたしはわたしらしく、またあなたはあなたらしい、本当に「確かな足場」を見出して、自由闊達にあゆみたいという願いは、なにも青年ばかりではなくすべてのものの願いであるにちがいありません。


 同時にしかし、わたしたちが本当に落ち着いて、元気を出して生きていける「確かな足場」などというものがはたしてあるのかどうか、ひょっとするとそうした「足場」などはもともと何もないのではないか――こんな不安も、すべての人のもとにおかれていることでもあります。


 「わたし」はいったい何者なのか、「わたし」が「元気」だとか「落ち着く」とかいうことはどういうことなのか、「確かな足場」がもしもないのだとすれば、「わたし」も「世界」も単なる浮き草のようなものに過ぎないのではないか。もし、わたしをわたしらしくさせ、歴史を方向づける、確かな存在の根拠(起点)が「わたし」にも「あなた」にもあるとしたら、それはどのようにあり、「わたし」とどう関係しているのか。そうした、根本的な問いが、わたしたちにはだれにも掛けられています。


 多くの場合しかし、こうした問いにたいして直接たずねることを避けるか、問われていることさえ知ろうとしないで生きています。


 けれども稀に、この問題を真剣に問いつづけ、悪戦苦闘のうえ、ついにさいわいにもそれを見出し、人として自然に、自由にその生を発揮して生きていく、そういう人も、わたしたちの身辺に、また歴史上の先達のなかに見られることも確かな事実です。


 そういう人のことを、もともとわたしたちは本当の意味での「宗教者」と呼んでいます。けっしてそれは、特定の宗教教団に所属しているか否かはまったく関係のないこととして見る必要があります。


 実際、宗教教団に所属して、熱心に「信仰生活」を送っているように見られる人よりも、自分ではまったく宗教など関わりをもたないと公言するような人のなかに、つねに生き生きと歴史の方向をさぐり、「確かな足場」にそくして生きていると言いうる場合も少なくありません。


 つまり、宗教は本来、すべての人のこととして問われ、答えを見出されることが待たれている問題だといわねばなりません。



         青年=人間はこころの旅を生きる


 そういう意味で、本章で扱う「青年と宗教」というテーマは、大袈裟ないい方を許されるとすれば、まさに時代を越え、ところを越えた永遠のテーマであり、古くて新しい普遍的な課題のひとつであるといえるとおもいます。


 そして、ここで「青年」といわれるものは、一面ではこれを「人間」と置き換えてもよいものです。なぜなら、「青年」の問いは、まさに「人間」の問いであるからです。


 しかし他面では「青年」といい「人間」といいましても、それは一般的に「青年」や「人間」というものが存在するのではありません。かならず、彼または彼女は、特定の具体的で個別的な名前をもつ「わたし」であり「あなた」です。


 そして、「宗教」も「わたし」のそれであり「あなた」のそれであるほかないものです。むしろそのことこそが重要なことなのです。


 したがって、わかし自身がこの問題をどうとらえ、どう見るのかを抜きにして、抽象的一般的な単なる知識を記すだけでは済まないことになります。


 その意味では、これからともに考えようとしていますことは、わたしの全く個人的な考え、意見に過ぎません。わたしは、一介のキリスト教の牧師であり、ひとりのごく平凡な生活者です。


 普通「牧師」とは「教会の牧師」を言いますが、わたしの場合、いわば仏教流に言えば「在家」の牧師として生活をつづけてまいりました。その点、「青年」を見る目も、「宗教」を見る目も、いくらか趣きを異にするかもしれません。


 だれでも、めったに心の内を見せません。ただ黙々と自分の牛を生きています。何度もつまずきながら、自分の掛け替えのない「こころの旅」を刻んで生きています。そして、親しい友だちからたずねられたときに、そっと自分のこころの内を打ち明けるものです。わたしのそれも、そんなことのひとつにすぎません。


           個性豊かな自分の道


 ところで、わたしたちは、幼少年期をへて青年期をむかえる過程で、家庭からうける影響はけっして少なくありません。日本における宗教、とりわけ仏教などは、長いあいだ「家の宗教」でありましたから、身近なかたちで宗教を考える場合は「家の宗教」がまず念頭に浮かび、取りたててその「家の宗教」が自分の価値観や人格形成に、また自然認識や世界認識に直接影響を与えるようなものとして機能することは比較的少なく、たまに家族の葬儀や法事などでそれを確認させられる程度が一般的になっています。


 それも、戦後はかつての家父長制的家族制度も改まり、核家族化が進行して「家の宗教」も一層形式的なものでしかなくなり、日常生活のなかでは、一般的に非宗教的な空気が支配的になっています。


 そして、青年としてだれでも持つ根本的な問い――「わたしはとこから来てどこにむかって生きているのか、わたしの人生の目的は何なのか」といった根本的な問い――は、家庭でも学校でも、主題的なこととして探ね求められるようなことがありませんでした。


 戦後はとくに、戦前の間違いを教訓にして、宗教的なことはもっぱら個人的で「私的」なことだとして、公教育では「宗教」に関わるものをすべて禁じることを原則にしてきました。


 もちろんそこには、個人の思想・信教の自由、基本的人権の保障といった積極的な価値観が学ばれ、戦後民主主義の果実がみのってきましたが、この「自由」といい「人権」という実質的な内容については、そこに含まれている事柄への根本的な省察が不十分なまま、知らず知らずのうちに人間としての精神的・内面的な見極めをさぼる結果を招いてきました。


 大切な成長期に、自分にとって最も基礎的な生きる力のみなもとになる人格の核ともいうべき「確かな足場」――人間としてのいのちの基い、喜びのみなもと――と出会うことができないことは、一番大きな問題であるといわねばなりません。


 こうした「足場」の喪失状態が、現代のわたしたちのからだにも、社会や世界にもひろく拡散して、それが二〇世紀も終わりに近付いた今日では、一層グロテスクな疑似宗教が流行ったり、異常な宗教現象があふれたりする不幸な温床となっているのです。


 そしてその渦中に、少なからぬ青年たちが呑み込まれてしまうことも、今日の大きな悲劇のひとつです。


 人生上の根本問題をそれとして真剣に考え、悩み抜くことは、やはり青年の特権であり、またそれは義務でもあるといわねばなりません。


 若者は、今も昔も、真剣に自分の道をもとめ生きているものだとおもいます。本当に信頼の置ける人をもとめて、その先達を探しているのだとおもいます。それも、けっしてひとつの形にはまったようなものではなく、それぞれに個性豊かな多様なかたちをさぐりながら、自分の「道」をたずねつつ自分の足場を探しているのでしょう。


 「わたしたちの望むものは、生きる苦しみではなく、生きる喜びなのだ」と、かつて牧師をこころざし一時期日本の「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康が、わたしたちの地域でもヤグラを組んで熱っぽく歌っていましたが、だれでも深い「生きる喜び」をもとめて生きていることは、あまりに当然のことです。


 そして彼は、つづけて次のように歌い継ぎました。「わたしたちの望むものは、生きる喜びではなく、生きる苦しみなのだ」と。どんなに苦しくても本当に手ごたえのある生き方をしたいという、青年らしい清純な切ない願いを、あわせて内に秘めていることも否定することはできません。どんなに苦しくても、喜んで生きていける何かを探しているのです。


 青年はひとたび、この世界に成り立った既存の宗教に出会っても、なおそこに留まることができません。絶えず、その奥を尋ねて歩もうといたします。


 わたしの友だちで大変魅力的な宗教者がいますが、彼の手づくりの『雄鹿』という本の巻頭エッセイで、次のようなことを記しています。


 「わたしは鹿である。谷川を求めて歩く孤独な鹿である。さようなら、過去よ。わたしは鹿である。わたしは谷川と共に流れるのではなく、谷川を奥へ奥へとより深き水のあるところを求めて、流れに逆らってたどらざるをえない雄鹿なのだ。途中で倒るるも本望である。真理を求めながら死んでいったと、そう言われるだけでよいのだから。」
     (延原時行『仏教的キリスト教の真理』行路社、一九八七年刊所収)


   (次回に続く)