「人間の尊厳性とその享有についてー21世紀を前に」(下)(1999年、高校教師研修会)


穂積肇さんの作品「メナシクルとクナシリ」



        人間の尊厳とその享有について(下


             ―21世紀を前に―


           1999年 高校教師研修会



            2 人権の享有について


              「うつわの歌」


 はじめに、あの神谷美恵子先生の二〇歳過ぎの作品「うつわの歌」を引いて見ます。

           私はうつわよ、
           愛をうけるための。
           うつわはまるで腐れ木よ、
           いつこわれるかわからない。


           (四運を略す)


           うつわはじきに溢れるのよ、
           そしてまわりにこぼれるの。
           こぼれて何処へ行くのでしょう、
           −そんなこと、私しらない。


           私はうつわよ、愛をうけるための。
           私はただのうつわ、いつもうけるだけ。


 神谷先生は一九七九年に六五歳で亡くなり、今年(一九九九年)ご主人も八五歳でお亡くなりになりました。みすず書房から著作集も刊行されていますが、『こころの旅』とか『生きがいについて』などはロングセラーですから、愛読しておられる方も多いと思います。

 
 美恵子先生の父・前田多門は戦後最初の文部大臣でしたが、戦前は新渡戸稲造との交わりもあり国際的な場でも活躍しました。そうした事情で彼女も外国での生活もあり、外国語も堪能でした。


 古典のひとつマルクス・アウレーリウス(紀元二世紀のローマ皇帝)の名著『自省録』 の訳者であり、現在も岩波文庫に入っていて、パスカルの『パンセ』やモンテーニュの『エセー』などとともに愛読され続けてます。


 この「うつわの歌」は、没後一〇年を経て刊行された『うつわの歌』(みすず書房)に収められています。この美しい小品は「人間の尊厳性」 の秘密を歌った作品だと思います。


              「生きる土台」


 宇宙には生きる「土台・基礎」が隠れています。ですから「土台・基礎」がどの人のもとにも据えられています。その「土台・基礎」は、扇の「要」のように厳存します。繰り返して申しましたが、一番基本になるのは「見えないけれどもある」という「土台・基礎」です。


 私は、この万人共通の「土台・基礎」を介して、「体と心」として成立してきます。「体」だけでも「心」だけでもなくトータルに「体と心」をもつ私か成り立っています。


 近年とくに「心身医学」が注目されますが、この「体」と「心」の区別と関係をとらえて「トータル」に治療する医学研究が進んでいるようです。


 同時にまた同じ「基礎」を介して「精神現象と物質現象」が分かれて成立してきます。この「精神と物質」の区別と関係を学ぶ努力も続いています。さらに同じ「基礎」を介して「理論(認識)」と「実践(行為)」も分かれて成立してきます。「理論よりも実践が大事である」とか「実践よりも理論だ」という無用の対立から解放された見方が生まれてきます。


 旧来の「あれかこれか」ではなく、「土台・基礎」を介して成立してくる極面として、「あれもこれも」積極的根拠をもつ新しい見方が発見されてきています。


              「三つの極面」


 もうひとつ大事な視点を見ておきます。それは「あれもこれも」という「二つの極面・領域」だけでなく、「三つの極面・領域」が成立してくることを紹介させていただきたいと思います。これは大事な知恵のひとつだと思うからです。


 この知恵は、先輩で身近な「師」でもある延原時行先生か、一九六〇年代に明らかにした見方です。「三つの極面」というのは、私かこれまで述べてきた言葉で言えば「土台・基礎」、つまり「確かな基礎」を「基軸」にして「個人性」「対人性」「社会性」と呼ばれるそれぞれ固有の極面が成立してくるという見方です。


 吉本隆明さんもほぼ同様の区分けをしたことで知られています。古本さんの場合、延原先生や滝沢先生のようには、肝心要の「基軸」が明晰判明でない難点がありますが、この見極めは重要な知恵だと思います。


 「個人性」というのは「一人性」とも言われます。この極面のことはここまでお話しして来たことですから、これ以上の言及は不要です。しかしこの極面のことが、いま一番見失われているように思います。


 こういう場所でお話しすることでないかも知れませんが、『文芸春秋』九月号を読んでいましたら、先月ご自宅で自殺された評論家の江藤淳さんを追悼する特集が組まれていました。遺作となった『妻と私』が今ベストセラーになっています。特集にも『妻と私』が全文掲載されています。この作品は、昨年一一月奥さんを癌で亡くされて四ヵ月後に江藤さんが書き上げた、奥さんへの「鎮魂記」です。


 この作品の中に「家内を孤独にしたくない。私という者だけはそばにいて、どんなときでも一人ぽっちではないと信じていてもらいたい」という言葉があります。編集部は「この作品は江藤氏の『遺書』だったのか」と書いています。結果的にはこれは「遺稿」になりました。愛する妻の死や自分の病気を苦にして、自殺を図ることは決して珍しいことではありません。


 私はいま「個人性(一人性)」と「対人性」と「社会性」の「三つの極面」があると中しましたが、借越な言い方ですが、江藤さんには「対人性」と「社会性」は視野に入っていたけれども、肝心要の「一人性」の最も大事な「隠れた基礎」への見極めと、「三つの極面」の区別・関係・順序が、残念なことにはっきりされていなかったのではないか、という思いが致します。


 姪にあたる方が、江藤夫妻をみて「一卵性のような似た者夫婦」だったと言われますし、江藤さんの友人の石原慎太郎さんは「典型的な妻恋いの末の後追い心中でしかない」と言います。

 
 「一人性」といいますと、皆さんよくご存じの「歎異抄」に記されている有名なことば「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(後序)をすぐにあげられるでしょう。


 これは親鸞の深い宗教的歓喜を認識・告白したものです。この事は「弥陀の本願」の掛けられていない人はひとりもいない! という「隠れた事実・真実」を告げています。


 この「一人性」の極面と同時に「確かな基礎」を介してもうふたつ「対人性」と「社会性」の極面が成立してきます。「対人性」というのは夫婦・親子・兄弟などの家族関係・友人関係の極面であり、「社会性」というのは地域・会社・国・世界などの極面です。


 私たちの日々の生活が全体的に健やかに成り立っていくには、この「三つの極面」が「確かな基礎」を介して「切り結んでいる」関係にあることを見ておかねばなりません。「切り結び」という言葉も、延原先生の用いた重要な言葉です。


 二〇世紀のドン詰まりにあって「個人」も「家庭」も「社会」も「確かな基礎」から浮き上がり、どこか上げ底されたフアフアした「危うさ」を、誰も感じています。


 そのただ中で「見えないけれどもあるんだよ」と歌われます。私たちの不安の絶対の裏側に「確かな基礎」は「あるんだよ」と告げています。


 「弥陀の本願」はこの私たちの足元にも、温かく厳しく届けられています。「信じること」「希望をもつこと」は、このことと直接かかわることだと思います。


             むすびにかえて


 「ヒューマンこフイツ」繰り返しますが、人間ははじめから「自由」であり「平等」です。この「自由」と「平等」を十分に発揮するように、励まされ・促されています。


 どんなに状況が悪くても、悪ければ悪いほど、希望を失わず歩むように励まされ、いつも新たに、もう一度元気を出して「ひとりで立って歩め」と呼び出されているのです。


 私の「青春時代」、といっても二〇代の終わり頃ですが、「フォークソングの神様」と呼ばれていた岡林信康さんや「自衛隊に入ろう」で有名になった高田渡さんなど大好きでした。


 今この歳になって「笠木透と雑花塾」というフォークグループにほれ込んでいます。毎年四月のはじめ、姫路の山奥の「かつらぎ自然学校」という素敵な山小屋で、「姫路フォークーサミット」と銘打って「新曲コンサート」が聞かれます。西から束からうたの好きな連中が、片手にギター、もう片手に一升ビンをさげてやって来て、かつ歌いかつだべり、一年間の成果を発表する楽しい集いです。


 七月にはこれも姫路で「星祭りコンサート」が聞かれます。古くから親しくしていただいている版画家の岩田健三郎さん一家が主催するものです。


 数年前のコンサートでしたが、「ヒューマンこフイツ」という新曲が歌われました。笠木さんの詩に曲をつけた岩田美樹さんが、「わたしはヒューマン・ライツの意味は、まだよくわかりません。でも、生きいきと楽しく、伸び伸びと生きること、それが人権だと思います。いま母はからだが不自由になっていますが、それでも不自由なままで、母は少しでも楽しく生きたいなと思っていると思います。」と前置きして歌われたのが印象的でした。


       ヒューマンーライツ 人間の権利
       かけがえのない ひとりよ輝け
       ヒューマンこフイツ 人間の権利
       たったひとつの 生命よ燃えろ


 日本において二〇世紀は「差別問題」をなくすことに力点がおかれてきました。「現実の差別」をどう解消していくのかに専心努めてまいりました。


 これからの二一世紀は、大地に根差した、しっかりとした「基礎」のある「人間の尊厳性」を、ゆっくりと真剣に探ね求め、発見する世紀です。


 同時にこれからの一二世紀は、共に地道にそれらを発揮する、いのち輝く「人権の享有」の世紀がはじまる新しい世紀です。


 そして、その「基調」になるものは、大地から溢れる「よろこび」です。
 小さな「上の器」からあふれ出す「よろこび」です。「うつわの歌」です。


 最初にも触れましたが「人権の享有」の「享有」は「エンジョイメント」です。「楽しみ味わう」ことです。仏教用語でこれは「受ける・用いる」と書いて「受用」というようです。


 「授かったいのち」を、フルに存分に発揮する。無理をしないで、ありのままで、自然に「伸びやかに・軽やかに」です。


 二一世紀は「ボランティアの時代」です。「言われなくてもする・言われてもしない」新しい自律的な人間たちが、聞かれたネットワークを結んで行きます。


 ともに新しい朝を迎え、静かに「朝のことば」を聴き、自ら信じ・家庭も学校も地域社会も大切にして、あせらず・なまけず、ゆっくりと、生きていけたらいい、と思います。
                           (一九九九年)