「結婚と部落差別」(1976年『私たちの結婚ー部落差別を乗り越えて』序章」(下)


穂積肇さんの版画作品「アぺフチカムイノミ」。1990年6月、穂積さんの著書『アイヌ今昔ものがたり』を兵庫部落問題研究所の「ヒューマンブックレット」の第2冊目として刊行させていただきました。

版画家の穂積肇(ほずみ・はじむ)さんは神戸生まれの版画家で『連作版画・矢臼別物語』『原野の少女』『原野の学校』『ヤマゆうばり』などの著書でも知られています。

アイヌ今昔ものがたり』では、いのちの込められた穂積さんの文章に加えて、力作の版画を多数収めて頂きましたが、カラー印刷にすることができませんでした。原画は大きいもので、このようなブログではその迫力は全く表現できませんが、掲載された原画が残されていますので、穂積さんへの感謝の思いをこめて、本日より数回にわたってUPさせていただきます。





    『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』(1976年)


           序章 結婚と部落差別(下)


      (前回の続き)


          三 乗り越えるための諸要因


 部落差別は、ふたりの関係だけでなく、家族関係や友人関係などを、ずたずたに引きさいてしまいます。このような場面に出あうたびに私たちは、なぜもっと早く部落問題を正しく理解する機会がもてなかったのだろうか、なぜふたりの幸せをみのらせるために、みんなで支えることができなかったのだろうかと、悔いてあまりあるものをつねに残してきたのです。


 次の母親のことばは、この後悔の思いを率直に言いあらわされている点で、今も私たちの心を打ちつづけています。息子さんが、職場で出あった女性と結婚を決意しながら、部落差別のために関係が絶たれ、破局を強いられてしまったのですが、その時母親が、彼女や親族たちを前にして、自分の息子さんにも話しかけるように、静かに語られたのです。


 「………自分自身を大事にしてね。自分自身を大事にすることは他人も大事にすることです。一日一目大事に生きて、自分も他人も大事にしてね。自分の重荷に背を向けずに、一つひとつ解決してくらしていくことが、人間の本当の幸せではないかと思うんです。学問も何もない親ですが、この子に精一杯のことをしてやろうと思うんです。(中略)私自身、もっともっと勉強してね。強くしていきたいと思うんです。最初に私か、今ほど部落問題に関心があったらね、この子とAさんの心の傷を、こんなにまで大きくしてなかったと思うんです。今考えたら本当に残念なんです。この問題が起きたときにね、しっかりした確信を持っていたら、Aさんにももっと上手に説得できたのに、と思うんです。親として責任を感じているんです。………」


 このように「母の責任」として、自らの事として語られるとき、このことばは、部落問題そのものの性格からして、部落差別を今日まで未解決のまま残しているものへの、痛烈な問いとして響いてきます。


 部落問題は、ほとんどの場合、このようにあたかも人民内部の矛盾ででもあるかのようなすがたをとって現象します。そして、この問題を解決するために立ちあがる場合も、たんにそのような現象にのみ目がうばわれて、人民同士が反目、対立、分裂させられてしまうという、大きな落し穴におちこむことも少なくありません。この落し穴は、支配者の差別政策によってしかけられた、格好の罠なのです。


 たしかに、この母親が反省をこめて話されているように、もしも本人同士をはじめ、家族の者や友人たちのうち、たとえひとりでも正しい理解があったならば、事態はけっしてこのような悲劇に至らずにすんでいたかも知れません。これまで、部落差別の壁があまりに厚かっかために、正しい理解と確信があったにもかかわらず、ふたりの関係が引きさかれてしまったというケースも、数多くありました。


 けれども、しかしそれにもかかわらず、本来それは、乗りこえるべき壁のひとつであるわけですから、必らずそこには、ただ単に差別の壁の厚さのせいに帰すことのできない側面を残すことも否めません。障碍物は、乗りこえるべきものであり、それはたくましく強く生き抜くべきものであるからです。


 ですから、最初に述べましたように、まず何よりも「結婚」という、ふたりを結ぶ基本的な絆を正しく受け入れることが重要です。そして、それと同時に結婚の絆を断ち切ろうとする「部落差別」のからくりを、きっちり見抜くということが、乗りこえるための大前提となることは、ここであらためて指摘するまでもないでしょう。事実、差別の壁が厚ければ厚いほど、ふたりの絆は、いよいよ太く鮮明になっていくということも、いねば当然の現象であると言うべきでしょう。


 このように、ふたりの結婚が真実なものであればあるほど、しかも部落差別は乗りこえるべき課題であることが明らかになればなるほど、乗りこえるための対応の仕方なり方法も、おのずと明らかになってきます。


 すなわち、その方法は、結婚を成立させるための、丁寧な説得的方法がつらぬかれることです。しかも、まずふたりが、いろいろ工夫をこらし力を合せて、可能なかぎり親子関係のなかで、この問題を解決できるように努力が重ねられます。このプロセスは、非常に重要な意味をもっていると言わねばなりません。


 とくに、親子関係が正しくつちかわれている場合、娘や息子たちの誠実な説得がつづけられるならば、最初は親の方に多少の偏見が残されていたとしても、徐々にそれは、克服されていくのです。この時点は、若者にとって親を乗りこえるときとして、大事な過程でもあります。息子や娘たちが、親に対して道理のある批判をおこない、精神的にも経済的にも親から独立して、ふたりがひとつになって、結婚を実現させていくわけです。


 たとえ親の方に、頑固に偏見が残されていたとしても、それは所詮偏見は偏見であって、息子や娘たちの確信のある道理をもった説得の前には、結局のところ、親の方が脱帽せざるをえないにちがいありません。


 しかし、この誠意ある説得にもかかわらず、家族の人たちはこの壁を乗りこえることができない場合が起こります。この時に至ってはじめて、友人や恩師の人たちが骨を折るのです。このような場面で、親身になって相談に乗ってもらえる恩師や、打ち明けることのできる友人かおるかないかは、非常に大きな分かれ目になるところです。


 この時点で、ふたりの関係に動揺が生じたり、親子関係が絶たれたまま結婚に至らざるをえなかったりするわけですが、ふたりにとって、よい助言をいただける恩師、力になってくれる友人はどうしても必要となります。肉親の父母や兄弟よりも、恩師や友だちの方が、本当の親・兄弟ではないかと、そのときふたりは考えることもあるにちがいありません。それでもやはり、ふたりは、肉親への説得の苦労をやめず、恩師や友人の助言と支えを受けながら、時にはひとりで、時にはふたりで、時には恩師や友人と共に、壁を乗りこえるための努力をつづけるのです。


 このような説得活動は、結婚式の当日まで、知恵をつくしてつづけられますが、他方ではそれと並行して、ふたりは実際に結婚生活がスタートできるよう準備にとりかかります。


 こうした、ふたりのたゆまぬ努力と、恩師や友人・同僚たちの側面的な説得や支え、心づくしの結婚式の準備等々は、必らず肉親たちの心を動かし、固いとびらを開きはじめるにちがいありません。しかも、自分の息子・娘たちの新しい門出の場に、とにかく出席して、その晴れ姿に出あうことができるならば、これまでいだいてきた偏見の壁は、よろこびの涙とともにすっかり取りのぞかれてしまうことでしょう。


 そして、反対してきた肉親たちは、深い反省のうちに、ふたりの門出を心から祝福し、恩師や友人たちへの感謝の思いを告げるのです。この経験のあとは、単に親と子の関係が元通りに回復されるだけではなく、親族同士の新しい交わりが、あらたに実現していくことにもなるのです。


 これらの積極的な事例が成立するためには、このほかに、部落解放運動の関係者の、結婚の問題に対する正しい対応のしかたがあげられねばなりません。すなわち、差別問題に対する方針として、結婚などにみられるような、市民のあいだに起こる差別事象に対しては、それにふさわしいかたちで、あくまでも教育的、説得的方法がとられる必要があります。


 そして、特に結婚問題に関しては、「運動」というよりも「友情」のレベルで、積極的にかかわっていくということも、重要な知恵ではないでしょうか。このことはまた、教育・行政関係者の対応のしかたにもほとんど同じことが言えるのではないでしょうか。



             四 地区外結婚の漸増


 第二次世界大戦後、口本の政治や経済や教育のしくみの民主的な改革と全国民的な民主化運動が前進するなかで、日本の社会のなかに、あるいは国民の生活や意識のなかに存在していた前近代的なもの、封建的なものは急速にとりのぞかれ、部落差別もまた基本的に解消の方向をたどってきました。その結果、もっとも困難だといわれてきた結婚の問題にしても、すでに多くの人びとが指摘しているように、今日では部落外との通婚は決してめずらしいことではなくなっています。


 たとえば『水平社運動の思い出』(部落問題研究所、山一九七五年、困一九七三年) などでもよく知られている木村京太郎氏は、奈良県人権擁護委員協議1 編の『結婚相談−知っておきたい同和問題』(一九七五年)という冊子のなかで、次のように述べています。


 「今では居住も混住が進み、学校で職場で共に勉強し、共に働らく人々が多くなっています。そして接触、交際が親密になれば、相互理解が深まり、したがって愛情が芽生え、結婚へと発展するのは自然の道理です。昔のように親の選んだひとと結婚するより、永年交際して、相手を知り尽しての合意ですから、親兄弟に反対されても、それを越えて結婚する本人たちは、自信があり幸福な生活を送ることができるんです。(中略)福岡県のある部落では、昨年(一九七四年) 中に一七組あった結婚のうち一四組が同和結婚(部落と部落外との通婚)だとの報告を聞いています。私の身辺でもその例が沢山あって、今では親兄弟たちの合意のもとに可成りスムーズに結婚式があげられています。ですから同和結婚という言い方がむしろおかしいほどで、特別とは言えないようになっているのです。」


 また「国民融合をめざす部落問題全国会議」の代表幹事として意欲的な活動をつづけている北原泰作氏〔補註‥おしくも一九八一年に病没〕も、その著『部落解放の路線』(部落問題研究所、一九七五年)のなかで、通婚の増加の現象について次のように指摘しています。


 「われわれの経験的認識からいっても、部落民と非部落民との通婚はしだいに増加する傾向が見られます。また近ごろ結婚にからまる差別事件が頻発するのも、通婚への一歩前進なのです。これは逆説のように聞こえますが、部落の青年男女と接触し交際する機会が拡大されたので結婚問題がおこり、親兄弟の差別の壁につきあたるのでトラブルが発生するのです。部落民が閉鎖社会にとじこもっている間は結婚問題や恋愛問題にからむ差別事件すらめったに起こらなかったのです。」


 もちろん、部落内外の接触・交流の機会がふえたから差別事件が起こっても仕方がない、ということでは決してありません。しかし、木村氏や北原氏らによって指摘されているような部落外との通婚の増加傾向は、数字のうえにも明らかに示されております。


 たとえば大正八(一九一九)年におこなわれた内務省の調査によりますと、全国における同和地区住民の結婚一五、〇五八件のうち、地区外との通婚は四五四件で二二・〇%にすぎません。ところが地区外との通婚は、すでに昭和の初期ごろから次第に増加の傾向を示しはじめており、とくに第二次世界大戦後の昭和二〇年代におこなわれたいくつかの調査の結果をみますと、地区外との通婚の割合は、農村部落では六〜一〇%、都市部落では一〇〜一七%というように、すでにかなり増加しています。それが、昭和三八二九六三年の総理府の調査結果によりますと、農村部落では八〜コー%、京都市大阪市などの大都市にある部落では三四%にも達しています。


 さらに昭和五〇(一九七五)年十月に奈良県下のある同和地区でおこなわれた調査の結果をみますと、その地区に現住していた四五六組の夫婦のうち、夫婦のいずれか一方が地区外であるものの割合を夫の年齢別に算出しますと、六〇歳以上では四・八%、五〇歳代ではコー・三%、四〇歳代では一六・〇%、三〇歳代では二六・五%、二九歳以下では三七・九%となっております。明らかに地区外との通婚が、近年急速に増加してきていることがわかります。


 以上のような変化は、同和地区住民に対する差別意識や偏見がうすらぎ弱められ、解消の方向にむかっていることを示しています。


 事実、徳島県尼崎市で最近おこなわれた意識調査の結果をみましても、子供の結婚について「部落の人」との結婚に反対の態度を表明した人は、消極的反対を含めて三〇・一%であり、しかもその割合は二〇歳代の若年層では二二・八%と低くなっています。また、「部落の人」との結婚に反対の態度を示した人の割合は、結婚を「家」相互間の関係としてとらえている人びとにあっては四二・九%であるのに対し、結婚を当事者同志の問題としてとらえている人びとにあっては一九・二%と低くなっています。これらのことから、同和地区住民に対する差別意識の解消が、民主主義意識一般の定着の程度と密接なかかわりをもっていることを知ることができます。


 もちろん、すでに述べたように、部落差別のために部落外との通婚をさまたげられて悲哀のどん底につきおとされ、ある時は絶望にうち沈み、ある時はその若い命をみずからたちきってしまう青年男女の悲劇は、今なお跡をたっていません。しかし現在では、それ以上に多くの青年男女が、さまざまな障害を乗りこえて結ばれていっているのです。私たちはそこに、部落解放への展望がきりひらかれていく力づよい息吹きを読みとることができるでしょう。
                          ( 一九七六年)