「部落解放の基調を問うー全国水平社「創立宣言」の批判的検討」(上)(1978年「九州大学新聞」)


宮崎潤二さんの作品「神戸川崎造船所・P工場風景」




          部落解放論の基調を問う(上)


         全国水平社「創立宣言」の批判的検討


         1978年10月「九州大学新聞」



            一 「水平社創立宣言」


 本稿は、わが国最初の人権宣言ともいわれる全国水平社の「創立宣言」を批判的に検討・吟味しようとするものである。


 言うまでもなく、大正十一年三月三日、京都の岡崎公会堂に全国から三千名の人々があつまってはじめられた水平社の運動は、部落解放をめざす全国的な組織的運動の出発点となったものであり、その「創立宣言」にこめられた思想は、今日の部落解放運動の重要な基調として受けつがれている。しかも、それはたんに部落解放運動にとどまらず、より広範な人々に影響をおよぼした歴史的な宣言として、積極的な評価をえて今日に至っているものである。


 しかし、われわれのここでの課題は、これをたんに無批判的に受け入れ、受けつぐことにあるのではなく、逆にむしろ「宣言」を手がかりにしながら、部落解放の出発点とその基調を批判的に検討・吟味することをとおして、現在直面している部落解放論の積極的展開に、いささかなりとも寄与することに主眼がおかれる。


 検討をはじめる前に、この「宣言」を全文掲載しておかねばならない。


        宣  言


 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。
 長い間虐められて来た兄弟よ、
 過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そして、これ等の人間を勦るかの如き運動は、かへって多くの兄弟を堕落させた事を想へば此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは寧ろ必然である。
 兄弟よ、
 吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われた夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその熔印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯儒なる行為によって、祖先を辱しめ人間を冒涜してはならぬ。そして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、人間を勦る事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。
 水平社は、かくして生れた。
 大の世に熱あれ、人間に光あれ。

  大正十一年三月三日
                         全国水平社創立大会


 この創立大会で、駒井喜作氏が宣言を朗読したときの様子は、機関誌『水平』でつぎのごとく報じられていることも周知のとおりである。


 《駒井氏の一句は一句より強く、一語は一語より感激し来り、三千の会衆皆な声をのみ、面を俯せ、歔欷の声四方に起る。氏は読了ってなほ降壇を忘れ、沈痛の気、堂に満ち、悲壮の感、人に迫る。やがて天地も震動せんばかりの大拍手と歓乎となった。》


 こうして、まさに燎原の火のごとく、水平社の運動は全国に波及していったのであるが、早速「宣言」に述べられている部落解放論の基調を問い直す課題にとりかかることにする。



          二 人間の尊厳性と兄弟性


 まずはじめに、「宣言」のなかで最も重要な主張として注目される「吾等の中より人間を尊敬することによって自ら解放せんとする」点から検討をすすめたい。


 小笠原亮一氏は、とくに「宣言」の「吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されていた」の箇所にふれて、《「人間を冒涜」していたのは吾々自身だ、という自覚、自己批判、自己否定が、他者による人間冒涜に先行して書かれている》ことに「高貴な精神」をみている。(『ある被差別部落にて』日本基督教団出版局刊、一九七六年、三六上二七頁参照)


 たしかに、この個所をこのように見ることは一応可能である。しかし、ここで吟味すべきことは、他者を責める前に自らの、といったたんなる自己批判の先行性にみられる「高貴な精神」にあるのではない。


 もしそうであるのなら、それは、従来の「吾等の為めの」「人間を勦るかの如き運動」に対置するかたちでの、「吾等の中より人間を尊敬する」運動の「新しい出発」に注目するという、こんにちごく普通に受け入れられている、いわば 「旧来の見方」にとどまらざるをえないであろう。


 ここでの問題はむしろ、「吾等の中より人間を尊敬することによって自ら解放せんとする」といわれる、その表現の根拠・基盤が問い直されなければならないのである。


 言い換えれば、そこにどれほど精確に、人間存在の根源的基盤に裏打ちされた尊厳性や兄弟性が受けとめられ、積極的に表現されているかが検討・吟味されねばならないのである。


 このもっとも肝要な一点が抜かされるとき、こうした「新しい出発」といえども、それは、不用・不当な過熱を帯びた、平盤でしかも独善的な傾きから一歩も脱けでることはできないからである。


 いうまでもなく、人間はそのはじめから絶対の尊厳に支えられ、促されている存在である。だからこそ「吾等の中より人間を尊敬する事」が可能なのである。この消息は、さらに精確に見られる必要があるのであるが、いくどもかえりみられていなければならない点である。


 また、兄弟性についても同様である。


 「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」ではじまる「宣言」は、「長い間虐められて来た兄弟よ」とよびかける。ここでの「兄弟」は、いうまでもなく虚偽の歴史的形態である「吾が特殊部落民」としての「兄弟」であり、あたかも人間存在の根源的基盤に成立する兄弟性をさすことばではないかのごとくである。


 しかし、ほんらいこの兄弟性が基盤にあって、はじめて「兄弟よ」とよびかけることができるのである。


 したがって、当然のことではあるがこの「宣言」にこめられている「吾が特殊部落民」なる「兄弟」は、これを廃すべきつよい抗議の意志がふくまれているとみなければならない。


 もしも、この逆説性が骨抜きされて、虚偽の歴史的形態にすぎない「兄弟」をひとりあるきさせることを許すとすれば、これほどわざわいなことはないのである。


   (次回に続く)