「部落解放の基調を問うー全国水平社「創立宣言」の批判的検討」(下)(1978年「九州大学新聞」)


宮崎潤二さんの作品「船屋組立て:神戸川崎造船所」





          部落解放論の基調を問う(下)


         全国水平社「創立宣言」の批判的検討


          1978年10月「九州大学新聞」


     (前回の続き)


           三 万人共通の絶対の祝福


 つぎに、「……呪われた夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわろうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその熔印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。」と語られている点について検討を加えておかねばならない。


 まず「なお誇り得る人間の血」についてである。このことばは、もちろんたんなる「吾々の祖先」を誇るのでも自らの血を誇るのでもなく、ただ、人間存在の根源的基盤が固く存在していることへの覚醒でなければならない。


 人間の恣意や境遇によっては微動だにしない固い基盤=絶対の尊厳性=に撞着した感動と賛美のことばとして発語されている、とみなければならない。


 もしも、この「人間の誇り」の成立してくる消息がみられずに、血が誇られるとすれば、文字どおりそれは的のはずれた高慢を結果するばかりであろう。


 では、つぎの「そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」という理解はどうであろうか。


 ここでの「神」は、いわば「抑圧的差別社会」の総称の意でもあろうけれども、「人間」といい「神」といい、深く厳密に考えぬかれた上での表現であるとはおもえない。むしろ、ここではたんなる人間の「血」が讃美され、「被差別部落民」としてこの「人間」が不当に高調されているのではなかろうか。


 さらにつづけて、「犠牲者がその熔印を投げ返す時が来たのだ」といわれる。かつて、「熔印」ということばはよく用いられたが、これは永久的に消しがたい事態をさすことばであるだけに、けっして適切な用語とは言えない。


 支配者の悪知恵からつくられた不当な差別を、あたかも運命的な熔印のように思いこませる落し穴に、まざまざとこちらからおちこむことがあってはならない。もともとそれは、勝手なレッテルはりにすぎないものであるからである。


 また、「投げ返す」ということばも、たんに犠牲者が迫害者に、被害者が加害者に、「熔印」を報復的に投げ返すというにすぎないのであれば、とくに注目に値しないであろう。


 しかし、ここでの「投げ返す」の意味は、たんなる対人的な関係での報復的なことではなく、人間を冒涜することによってかろうじて維持されるかのように考え違いをしている「支配者」にたいして「投げ返す」ことでなければならない。「熔印」もそのようにして「投げ返す」ことのできる「熔印」にすぎない、と言うべきであろう。


 さらに、「殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ」として、先の「人間が神にかわらうとする時代にあうた」のとは、少しくちぐはぐではあるが、その苦難の生涯の意味を、「荊冠」にみられる「ナザレのイエス」のイメージとだぶらせてとらえなおしている。


 イエスは、殉教者とか犠牲者とかとして自らをみたてるようなことはなかったのであるが、苦難を背負って生きる者の最も近しい友だちであったことはたしかである。


 ここでも、自らを「殉教者」とみたり、のちに「選民」視する傾向も生れるのであるが、万人共通の絶対の祝福の基盤が見失われるとき、知らずしらずのうちに独善的な英雄主義におちこむのである。


 「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」といわれる場合も、かならずそこには、卑屈になることも高慢になる必要もまったくない、万人共通の絶対平等の基盤におかれていることの了解と、差別支配にたいする根本的な否定がみられているのでなければならない。



              四 湧出する誓願


 「人の世の冷たさが、どんなに冷たいかい人間を勤る事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである」


 人間としての基本的権利の侵害が多ければ多いほど、その権利回復への要求もそれだけ大きいのである。同時にまた、人生の苦労をふかく経験したものほどゆたかな人間性をもつということもたしかな事実である。


 しかし、もちろんすべての場合がそうなるわけではない。人間としての権利回復への要求も、ゆたかな人間性も、人間存在の根源的基点そのものに裏打ちされてはじめて成立してくるものである。


 我々が「心から人生の熱と光を願求礼賛する」というときも、さいわいにもすでにはじめから、我々の人生に熱と光をもたらす基盤が確固としておかれていることが見られているのでなければならない。もしそうでなければ、それはたんなる自己願求、自己礼賛におわることとならざるをえない。


 「水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光あれ。」


 あまりにも有名なこの美しいことばは、人の世を人の世たらしめ、人間を人間たらしめる根源的基点から湧出する、いねば誓願である。だからこそ、このように人間のことばとして発語されてくることができるのだ、というべきである。


 部落解放論の基調は、何よりもまず人間存在の根源的基点に固く裏打ちされ、そのダイナミズムに即応するものでなければならない。その意味でも、全国水平社「創立宣言」は、こんにちもなお多くの清算すべき課題をのこしているといわねばならない。


 こんご、さらに批判的な検討が加えられて、部落解放論の積極的な視点の回復のために、人びとの注目をあつめつづけるであろう。
                            (一九七八年)