「部落解放運動とキリスト者」(下)(1974年6月『福音と世界』)


宮崎潤二さんの作品「神戸川崎造船所正面」



          部落解放運動とキリスト者(下


         『福音と世界』1974年6月号


      (前回の続き)


            三 批判的精神の発揮


 ところで、部落の解放の課題が部落住民自らの課題であるばかりでなく、他のすべての住民の課題でなければならないことはあらためて指摘するまでもない。そして同時に、このことは直接部落解放運動とかかわりのない各分野においても、その固有の課題を掘り下げるとき、かならずそこに部落解放、ひろくは人間の解放と密接なかかわりのあることは確実なのである。


 したがって、各分野の固有の課題の掘り下げが各々に根づいたものであるとき、正しい間をおいた関係性を保ちながら、解放運動との真の連帯をつくることができるのである。


 しかし、近年部落解放運動と直接的に連帯するということで、少なからぬ混乱をうんでいることも事実であって、この点に関する慎重な吟味は重要であろうとおもわれる。


 なぜなら、運動は運動で苦悩にみちた再検討が求められているとき、たとえそこに善意と倫理的同情もしくは部落解放への共感共苦の意志が強くあろうとも、否それが強ければつよいほど連帯する者はよほど賢明な知見をもたねば、責任あるかかわりはできないからである。


 これまでいちども人間の根源的基点に気づくことなく、いつもお茶をにごしてその場のがれをしつづけてきたために、ぶざまな対応を余儀なくされて混迷を続ける行政関係者や学校関係者にも似て、運動の分裂的状況にわるのりし、それに輪をかけるかたちで「連帯する」ことにもなりかねないのである。


 部落解放運動を考えるとき、相対的な意味においてであるけれども、「当事者優位の原則」というものはあるであろう。まず当事者が自ら立ちあがり、そこでの運動の責任を担うことは当然のことである。よそものがなりかわり、主役のようなふるまいはすべきことではないのである。


 だがしかし、「当事者優位の原則」は、当事者の運動・思惟がそのままに正しいとかふみはずしていないとか、批判の対象とはなりえないとかいうことではない。むしろ逆に、理論的にも実践的にも運動の固有領域内における相互批判のみならず、他の諸領域からの批判的交流がつよく期待されているのである。


 批判精神が枯渇するとき枯死する道をたどるのは必然である。とりわけ歴史的にタブー視されつづけてきた部落問題に関しては、自由な批判的精神をいきづかせることが重要であることは、これまで度々述べてきたところである。


 もしも部落解放運動のなかのどこかに批判を許さぬ状態が残るとすれば、それは運動の正しさを示すよりも、自らの経験や恣意を先立てることによって、運動そのものを「逆限定」しているものへの知見の欠除を証拠だてているものでしかないのである。


 部落問題とかかわる場合おちいりやすい傾向としては、加害者意識あるいは差別感情や偏見を、自らの性格的な気の弱さも手伝って度をこえてしまう傾向とか、先に触れた部落解放運動を自らの社会活動の場として成りかわろうとする傾向とか、あるいはまたそれぞれの固有の場の掘り下ずをさぼるかわりに、部落問題をねじまがったかたちでその場にもちこむといった傾向とか……を指摘できる。


 あとで言及するが、われわれが見誤ってはならないのは、それぞれの固有の領域のあることの認識と相互の了解であろう。われわれにとって困難なしごとではあるけれども、相互批判のできる基礎をあきらかに見きわめる努力をつづけながら、当事者に対していちもくおく(これは謙遜のかたちをとった侮蔑でしかない)過ちを少なくして、「真剣にそして自由」な交流がうまれることをねがうものである。


 ここで、蛇足的に「連帯する」ことに関連して付言するのであるが、部落差別の直接的体験のない者がそこの住民のひとりとなって、事実的同一化の道を選ぼうとすることは、これまでよくあったことであるし、今後も少なくはないであろう。


 この事実的同一性を求める志向性は、ひとりひとり異なるけれども、個人的な経験を述べるとすれば、われわれの場合、いわゆる部落解放運動に参加することを主たる目的として歩みだしたのではなく、もっぱら自らのこととして「信じて生きる」こと、なかでも物心両面の独立・自立への実験的試みであって、結果的附随的に(といっても気楽に無責任にというのではない)、自然に一住民として部落解放運動とかかわっているのである。


 われわれが今日ひとりの労働者として働き、部落差別の現実のなかで同じように生きていこうと意欲することはふかく必然性のあることであろう。これは運動のレベルのことというよりは、いねば「友情の世界」の発揮として把えることができる。



            四 独自課題の徹底


 粗雑な記述ではあるけれども、これまで部落解放運動の現状および連帯することをめぐる諸問題について触れてきた。
 以下結論的にわれわれキリスト者のしごとについて考えてみたいとおもう。


 先にも記した通り、人間の解放は物質的側面と精神的側面に一応区別されるのであるが、キリスト教の貢献する側面は、特に精神的側面の構造性を明晰判明たらしめるところにこそある。


 たとえこれまでキリスト教界で「解放」という言語、もしくはその基本感覚が欠落していたとしても―−もちろん、キリスト教界のみならず日本の思想界においても事態は同じであるけれども――これがキリスト教の「基本語」として把えなおされえないと断定することはできない。むしろ逆に、キリスト教の根源的基点=「原事実」に宿るものは、人間の解放とは何かをあきらかにする当のものであるといわねばならない。


 たとえば、滝沢克己氏が『カール・バルト研究』以後、精力的にこの「原事実」のより精確な照明をあてつづけたことや、延原時行氏の「『イエスとキリスト』問題へのanalogia actionis(行為の類比)の提言」(BAMBINO I)、その他の諸論稿で、とくに言語概念と行為概念の区別と関係を解明してきたことなどは、けっして等閑視されてならないところである。


 われわれはこれらの先達に学びながら、さらに批判的に対決折衝することを通して少しでもことがらをあきらかにしていかなければならない。
端的にいってキリスト者のしごとは、その独自の領域を原理的・実践的に徹底していく方向にこそあるのであって、けっしてキリスト教を放棄あるいはあげぞこにする方向にはないのである。


 不用意なかたちで、部落解放運動と一体化することは、キリスト教にとってばかりでなく、運動にとっても歓迎すべきことではない。両者は表相的に地つづきであるのではなく、根源的基点において、また領域をことにして深くつよくかかわっているのである。


 そしてわれわれがこの方向を徹底させることによって、すでに解放運動のなかで探りあてられた知見をいっそうあきらかにさせ、運動がたんなる内的な被差別感情やふっきれない怨念を基礎にする「旧い思惟方法」を、いくらかでも超克することに貢献できるとすれば、それにすぎるよろこびはないであろう。


 心身の健康のためには「頭寒足熱」が大切であるといわれるけれども、「原事実」からくる熱で足をあたためなければ、キリスト教も解放運動も、異常に頭に血がのぼり足(心)の冷えた「頭熱足寒」で、ついに病に倒れることにもなりかねないのである。


 神学が神学として、教会が教会として、信仰者が信仰者として、「原事実」への告白(認識)と行為をそれぞれ徹底させること、そして物心両面の等根源的相補的関係性を把え、全人的な解放の実現にむかって歩みはじめること、これらがわれわれのしごとでなければならない。
                                                                (一九七四年)



 (補記)


 1 「連帯」の吟昧との関連で、批判的検討を試みた下記の拙稿を参考までにあげておく。
 2 「“差別の現実から深く学ぶ”とはどういうことか」(兵庫部落問題研究所「部落問題」第九号、一九七六年)
 3 「全同教の“運動とは切れぬ”という“原則”について」(同右、第一〇号、同年)
 4 「全同教の“実践中心主義”について」(同右、第一一号、ー九七七年)