「部落解放運動とキリスト者」（上）（１９７４年６月『福音と世界』）
宮崎潤二さんの作品「溶接工の昼休み：神戸川崎造船所」
部落解放運動とキリスト者（上）
『福音と世界』１９７４年６月号
一 解放運動の基調
部落解放運動はふたつの側面を持っている。
ひとつは部落差別によってふみにじられてきた者自身が、みずからの人間性の根源的基点にめざめ、これを共に発揮していくという、いねば広義の精神的領域に属する教育・人権闘争の側面であり、他方部落差別をつくりだしこれを温存助長せしめている生活諸条件、とりわけ労働・住宅・教育・環境など物質的領域に属する要求闘争の側面である。
そして、この両者が車の両輪のごとく正しい関連性を保ち、物心両面の根源的基点から湧出・発見される知見のもとで、住民の自治的総意にもとづいて部落解放運動がすすめられるとき、閉鎖的独善もしくは神経症的心性から解放されて、健康な根のある生活に根づいた部落解放運動が展開されていくのである。
（このふたつの側面を差別の実態の区分からみるならば、「同和対策審議会答申」〔昭和四十年八月〕における指摘のごとく「心理的差別」と「実態的差別」に区別することができる。）
さて、われわれがまずここで部落解放運動について述べようとするとき、大正十一年のあの水平社運動というかたちをとって湧出した、部落住民自らの立ち上りに注目しなければならない。
この水平社運動の底流に脈打ち、今もなお単に運動を担う者のみならずひろく普遍性をもつものとして、われわれの心を把えるものはいったい何なのであろうか。
あとでもみるようにそれは、幾世代にもわたる厳しい部落差別が部落住民の生活の深部にまで、ほとんど運命的とまでいえるほどにまとわりつき、人間であることを極度に冒涜され心身の苦痛をまぬがれえない境遇のなかで、「なお誇り得る人間の血は、涸れずにあっった」（水平社宣言）ことへのおどろきと感謝の感覚・知見であり、新しく把え直された「人間の誇り」であったのである。
したがってそこには、人間を人間たらしめている「原事実」《Ｕｒｆａｃｔｕｍ》は人間の恣意や境遇によって微動だにせず、人間はこの支えと励ましの力に照応して、ただちに立ち上がることのできる実在・可能根拠のあることにめざめ、深く人間の尊厳性に気づかされているということができるのである。
重ねていうならば、末解放部落では仕事・婚姻・居住など生活のあらゆるところで、人間としての基本的な権利が不当に侵害され続けてきたのであるが、そのなかにあってもなお人間の基本的なかたちを見失わず、いっそう人間的なあたたかさ、やさしさ、気安さの大事さを知り、それを保ってきているのである。
われわれはそこに「原事実」の光からの反映といきづきをみることができる。
人間の解放が呻かれ叫ばれるとき、かならずそこには「原事実」に撞着してそこにすでにある構造性・目標・力学につきあたり、その力におされて発揮するあぶれの性格を失うことはない。
部落差別に限らず、われわれがいかに貧しくともどれはどの逆境におとしめられようとも、その境位の背後で支えている力にゆだねてかたくたち、それを足場にして一歩でも実質的な歩みだしをしようとするのが人間というものであるとするならば、部落解放運動に立ち上がった人々の歩みは、けっしてその例外ではないことを、ここに知ることができるのである。
日本における人権宣言のひとつといわれる「水平社創立宣言」はすでにひとのよく知るところであるので、ここでは水平社創立発起者が「創立大会」へのよびかけとして趣意書をつくり、全国の有志に送った「よき日の為に」（大正十一年二月）からその一部を引用してみたい。
《人間は元来勦はる可きものじゃなく尊敬す可きもんだ――哀れっぽい事を云って人間を安っぽくしちゃいけねえ。尊敬せにゃならん。何うだ男爵！ 人間の為めに一杯飲まうじゃねえか――ドン底のサチン。
吾々も、すばらしい人間である事を、よろこばねばならない。吾々は、即ち因襲的階級制の受難者は、今までのやうに、尊敬す可き人間を、安っぽくする様な事をしてはいけない。いたずらに社会に向って呟く事を止めて、吾々の解放は、吾々自身の行動である事に気付かねばならない。吾々は世間の所謂同情家の――同情はする、しかし汝の僻みと不衛生な生活から脱けて来い―−と云ふ如き遁辞には耳を籍すものではない。それは、プロキュストの鉄の寝床だ。旅人の体が、そのベッドより短い時は、ひきのばす。長過ぎた時は切りとってしまふのだ。彼は到底助けるものではない。又彼等のあるものは、日本のネヅダーノフだ。おせっかいな、お目出度い、ロマンチック・リアリストだ。そんなものに、いつまでも、対手になって居ては、いけない。吾等の中ヘ――と云ふのを、吾等の中より――と改めねばならぬ。
吾等の中より―−よき日の殉教者よ出でよ。》
《吾々の運命は生きねばならぬ運命だ。親鸞の弟子なる宗教家？ によって誤られたる運命の凝視、あるいは諦観は、吾々親鸞の同行によって正されねばならない。即ち、それは吾々が悲嘆と苦悩に疲れ果てて茫然してゐる事ではなく―−終りまで待つものは救はるべし―−と云ったナザレのイエスの心もちに生きる事だ。そしてそれは吾々に開かれるまで叩かねばならぬ事を覚悟させるものだ。
叩かずして開かれる時を待つものは、やがて歩まずして入る時を待つものだ。虫の好い男よ！ 永遠に冷たき門に立て。》
《吾々は大胆に前を見る。そこにはもうゴルゴンの影もない。火と水の二河のむこうによき日が照りかがやいている。そしてそこへ吾等の足下から素張らしい道が通じている。（中略）吾等の前に無碍道かある。》
《起きて見ろ――夜明けだ。吾々は長い夜の憤怒と悲嘆と怨念と呪咀とやがて茫然の悪夢を払ひのけて新しい血に甦へらねばならぬ。》
右の引用でもあきらかなように水平社運動の基調となるものは、足下の無碍道への基本感覚とその発揮・いきづきであることは、これ以上記さずとも了解できるとおもう。
そして、そこにすでに当然であるとはいえ、精神的解放（創立宣言においては「人間の覚醒」と言いあらわされている）と物質的解放という、人間の解放の両側面の展開が意欲されているのである。
（物質的解放の側面では、当初「経済の自由の要求」があげられ、のちに「職業の自由」（昭和二年）に、さらに「生活権の奪還と政治的自由の獲得」（昭和五年）へと綱領の改訂がおこなわれた。なお、昭和十三年には「新綱領」が決定され「吾々は国体の本義に徹し国家の興隆に貢献し国民融和の完成を期す」として戦時体制にくみこまれのめりこんでしまったのであるが。）
二 解放理論の再検討
さて、このようにして出立した水平社運動は、その後どのような経過をたどり、いかなる現状にあるのであろうか。
戦争をはさんで多くの試行錯誤と悪戦苦闘のもとで、部落解放理論の探究においても、見逃すことのできない歴史的経験と教訓をのこしていることは事実である。
しかし周知の通り今日の部落解放運動は、他の諸分野の現象と同様に分裂と混乱を呈しており、先にも引用した水平社運動初期の人間解放の基本感覚すら見失われつつあるのではないかと危惧されているのも事実である。
この現象がうまれる根本原因は、当然運動そのものの根源的基点に潜むけれども、その要因のひとつを指摘するとすれば、近年の極立った運動の量的拡大と「答申」「措置法」をうけた行政の施策面の拡充にともない、知らず識らずのうちに部落解放運動が行政の下請けと化していくところにあるといえる。
運動の拡大と行政の拡充は、さらにすすめられなければならないけれども、運動そのものの根源的基点、目標が無視され、くわえてたたかいの方法をあやまることがあるとすれば、熱意と意図とはまったく逆の結果に至らぬともかぎらないのである。
「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」と叫ばれたあの「人間の誇り」−−そこには「個即類」のひろがりと結びつきが自覚されていた−−は薄れ、「私人」≪Ｐｒiｖａｔｍｅｎｓｃｈ≫を基礎とした単なる党派的、あるいは徒党的な「運動」が日常化するのである。
したがって、今日ほど部落解放運動そのものの原理的再検討が求められているときはないとおもわれる。教育・人権闘争のいわば精神的側面にあっては、人間の自由・平等・基本的人権・民主主義などの原理的解明を、他方物質的側面にあっては、社会的経済的構造と変革の原則・方法の解明を、それぞれの分野において学理的探究としてすすめられなければならない。
差別と分裂に抗するものは、人間の恣意を絶つところの「原事実」からただちに成立してくる自由・平等・連帯の知見であることはいうまでもない。そして、この知見に生きる――人間が人間性を発揮する――ことが差別に対するもっとも有効な反撃なのである。
（次回に続く）
